ロヒンギャ秘史  彼らはネイティブなのか 

宮本神酒男    地図 


雨に煙るいにしえの都ムラウーはラカイン人によって作られた 

(1)突然ロヒンギャがラカインの先住民であることに気づく 

ヒンドゥー教の神像や仏像 

 昼間、わたしはガイドのバイクの後部座席に乗って、ミャンマー・ラカイン州の旧都ムラウーから10キロほど北西にある古都ウェータリー村を訪ねた。この名が古代インドの地名ヴァイシャーリー、すなわち「毘舎離(びしゃり)」に由来することに、わたしはすぐ気づいた。ガイドによれば、彼らラカイン人は自らをマグ人、すなわちマガダ(摩訶陀)国の人と呼んでいるという。実際はまったく違うことをあとで知るが。本当に彼らは紀元前にマガダ国やヴァイシャーリーから来たのだろうか。それともブッダの時代に憧れるあまり、こんな地名を付けたのだろうかとわたしはぼんやり考えた。 

 この村に「神像の置き場」があった。大きな屋根に覆われてはいるが、壁はない資材置き場のような場所に、数柱の神像がぞんざいに置かれていた。ガイドがおざなりな説明をしたせいか、その重要性にわたしはすぐに気がつかなかった。まるで仏教ではないので重要なものではないかのように、ガイドは「これは神像だ」とぽつりと言っただけだった。ラカインには仏教以外の民間信仰の祠や神像がたくさんあったので、わたしはさほど気に留めないで、つぎの観光のポイントに移動してしまうところだった。 


ヒンドゥー教の神々の集会場は子供の遊び場に。右はヨーニ(女性原理の象徴)の残骸 Photo: Mikio Miyamoto 

 神像置き場に足を踏み入れてしばらくすると、隣の学校らしき古い建物から、授業が終わったのか、子供たちが鉄砲水のように噴き出してきた。子供たちは、金箔が貼られた神像の合間や周辺を自在に走り回って遊び始めた。触ろうが、坐ろうが、いたずら書きしようが、勝手だった。仏像ではないので、保存に神経を使う必要はないかのようだった。ここに置いてある(放置されている)のは神像だけでなく、「リンガ&ヨーニ」(男性原理、女性原理の象徴)の一部らしきものもあった。つまりここにあるのはヴィシュヌ、女神ガンガー、チャクラデーヴァなどヒンドゥー教の神像や宗教儀礼に関わるものだった。私は混乱していた。ブッダが生きていた時代からラカイン人は仏教とともに生きてきたのではなかったのか。 

 ウェータリーには有名な仏像があった。一つの岩を穿って作ったという高さ5メートルの金剛大仏は、見た目はそんなに古くは見えなかった。ガイドによると、表面は何度も塗り替えられているので、真新しい仏像に見えるかもしれないが、実際に作られたのはブッダの生きていた時代だという。ガイドブックによれば327年に作られたものだというが、その年代だってにわかには信じ難かった。 


ウェータリーの大仏。一つの岩から造られた Photo: Mikio Miyamoto

 ふたたびガイドのバイクの後部座席に乗り、そこから30キロ近く離れたマハムニ寺院を訪ねた。ここの奥深くの間に鎮座する金色に燦燦と輝く大仏は、1784年に侵攻してきたコンバウン朝ビルマ軍に略奪されたマハムニブッダの代わりを務める弟分の大仏だった。ガイドによれば、これらもブッダの生きていた時代に作られたものだった。しかし考古学的な観点から言えば、近くの丘の上のほうが重要だった。そのあたりはダニャワディと呼ばれるもっとも古い王宮の跡だった。この名はブッダが生まれたときの釈迦(シャーキヤ)国の宮殿ディンニャワディにちなんだものだった。研究者パメラ・グトマンによると、王宮が建てられたのは4世紀だという。 

 そのグトマンによると、この地にはブッダに関する伝説があった。 

 ブッダの時代、チャンドラスーリヤ王は評判のブッダの教えを聞きたく、直接会えないものかと考えた。しかしインドのスラヴァスティにいるブッダは弟子のアーナンダに言った、蛇の魔物ナーガが支配するいくつもの川や海を渡るのは、国王にはむつかしいのではないか、と。そこでブッダは自ら五百人の弟子を連れて空を飛んで、チャウトーの川の向かいのセラギリの丘にやってきた。

 彼はこの国には、前世の自分の遺物を祀ったパゴダが無数に建てられるだろうと予言した。この言葉に対し、大地は揺れ、大海は沸騰したので、チャンドラスーリヤ王は占星術師を呼び、この吉兆の意味を尋ねた。セラギリの丘にブッダがやってきたことを知った王は、第一王女チャンドラマーラー、数百人の乙女、大臣たちを連れてブッダを迎えるために丘に向かった。王がブッダのもとを訪ねると、ブッダは法を説いた。またブッダは都に七日間滞在することを同意した。また去る前にブッダは自分の像や毛髪を残す約束をした。それらは涅槃のあと五千年崇拝されるだろうと告げた。

 聖なる像は、神々の王サクラ(インドラ)と天上の建築家ヴィスヴァカルマンによって、王宮の北東にあるシリグッタの丘に造られた。ブッダが仏像に命を吹き込むと、あたかも二人のブッダがそこにいるかのようだった。無数の奇跡のしるしが現れた。すなわち大地が揺れ、命を得た仏像はゆっくりと立ち上がった。そして兄のゴータマを歓迎する仕草を示した。ブッダは弟子たちとともにサンドウェーの方向へ飛んでいった。


 後日、モーリス・コリスの『大仏の地』を読むと、1924年にこのサンスクリット名シリグッタの丘を訪ねたとき、作者は5世紀のグプタ様式のヒンドゥー教の神々の石像を見て驚かされたと記していた。それらは現在マハムニ・パヤーに併設されている博物館所蔵のいくつかの石像と同一なのだろうか。これでウェータリーだけでなく、ダニャワディもまた仏教の都であるだけでなく、ヒンドゥーの都になったことがあるということである。 


マンダレーに「移された」マハムニブッダ(右)と代わりの大仏 Photo: Mikio Miyamoto

 わたしはこの丘から川向こうの町チャウトーの北西の方向を眺めた。いつの日かマウンテンバイクに乗って、チャウトーの先にあるロヒンギャの地域へ行けないだろうかとわたしは考えていた。本格的なロヒンギャ虐殺がはじまろうとしている時期だったが、わたしはロヒンギャ問題にそれほど詳しくはなかった。そのロヒンギャ地域のマウンドーに、17世紀、ベンガル太守でムガル帝国の皇子、シャー・シュジャが現在シュジャ村と呼ばれている村に一時期滞在し(そのあとムラウーに移動している)、亡命生活を送っていたことを当時のわたしは知らなかった。 

[註1:チャウトーとマユ地区の間に横たわる丘陵地帯の森が難路中の難路であることも私は知らなかった。1942年、チャウトーとミェボン(ムラウーの南100キロ)の間のムスリムの村々が襲われ、焼き払われたとき、生き延びたムスリムたちはこのルートを通ってマユ地区へ逃れた] 


突如気づいたこと 

 
その日の夕方、ホテルの部屋に戻ったわたしはなぜガイドはいつもありえない説明をするのだろうかといぶかしく思っていた。わたしはインドやパキスタンの十か所以上の博物館で古代の遺物の展示を見てきた。もともと仏教は偶像崇拝を嫌い、インドの仏教が栄えた場所でさえ、三宝の印やミニチュアのストゥーパ、ブッダの足跡があるだけで、紀元前の仏像がひとつも存在しないというのに、ラカインにだけ存在するなんていうのはおかしなことだった。そのとき目からウロコ状のものが落ち(それは一か月半前に行方不明になっていたコンタクトレンズの破片だったが)、わたしは覚醒したのである。ヒンドゥー教徒がいたということは、インド人がいたということではないのか。 

 ムル族、サク族、クミ族など(もっとも早くやってきたチベット・ビルマ語族)の少数民族の原住民らしき人々を除くと、アラカンに古くから住んでいる高度な文化を持つ人々は、インド人に違いなかった。あとで知るのだが、ビルマ系ラカイン人がビルマからアラカンに入ってきたのは、せいぜい10世紀半ばのことにすぎなかった。しかしアラカンの新参者にすぎず、アラカンの古い仏教文化とつながりがないことにコンプレックスを持つラカイン人は、歴史を修正しがちだった。仏教の信仰があつすぎる余り、自分たちはブッダの生まれた時代からずっとラカインに住み、仏教文化を生み、育んできたというファンタジーの歴史を信じ込もうとしているかのようだった。 

 
ダニャワディから発見されている神像は、たとえばボーディサットヴァ・アヴァローキテーシュヴァラ(観音菩薩)(註2)と見られる像がそうだが、グプタ朝(4から6世紀)後期に属すると考えられている。すなわちマハーヤーナ(大乗)仏教である。ダニャワディには宮殿があり、大乗仏教寺院があったのだろう。 

[註2:典型的な密教の神像は見つかっていない。しかしあとで述べるように、天竺僧によって南詔にもたらされたものに、大黒天信仰とともに観音信仰があった] 

 遅くとも8世紀までには、ウェータリーを都とするヒンドゥー教王朝が建てられた。ヒンドゥー教徒ということは、彼らがインド人であったということだ。仏教も、初期は基本的にインド人が信仰する宗教だった。中国人やベトナム人、韓国人、日本人が仏教を信仰するのは、何百年もたってからのことだった。はじめテーラワーダ仏教、大乗仏教が混在する仏教がインド人とともにやってきて、次第にヒンドゥー教徒が増えた(仏教徒もたくさんいた)のではなかろうか。 

 
インド・アーリア系の人々がアラカンに古くから住んでいた証拠といえるのが、シッタウン寺院のアナンダ・サンドラ石碑などの10世紀以前の碑文である。すべてロヒンギャ語に近いインドの言葉でガーウディ文字を用いて書かれていることである。 

 
すでに述べたように、先住民であるインド系の人々は、はじめ仏教徒だったが、のちにヒンドゥー教徒になり、さらに改宗してムスリムになった。宗教が替わると、人も替わると考えがちだが、実際は多くの人々が先祖伝来の地を捨てたり、追い払われたりするのでなく、ただ改宗をしているのである。 

 モーリス・コリスは7世紀頃のインド人の住むアラカンで、他の地区と同様、仏教のテーラワーダ仏教とマハーヤーナ仏教、ヒンドゥー教は同居できたと考えている。「唐朝の学僧玄奘が630年にインドを訪れたとき、ハルシャ王のもと、マハーヤーナ、テーラワーダ両仏教、ヒンドゥー教が同時に繁栄していた。アラカンもそのときはインドで、住人のインド人はベンガルの住人とよく似ていた。(インド亜)大陸を通じて見られるように、アラカンではヒンドゥー教と二種の仏教両方とも見られたと言っても間違いはないだろう」  

 
最近の一部の風潮のように、ラカイン(アラカン)が現在ミャンマーの一部だからといって、なぜ昔からビルマ人が住んでいたと決めつけなければならないだろうか。(註3) 古代アラカンにかなり古くからインド人が住んでいたとして、何の不思議があるだろうか。隣のビルマ・バガンには、アショーカ王の時代に伝教の使節がやってきたという伝承もある。古代アラカン人はインド仏教の仏教徒であり、テーラワーダ仏教や大乗仏教、タントラ仏教を信仰した。しかし彼らの多くは、いつのまにかヒンドゥー教を信仰するようになっていた。そして大半はその後イスラム教を信仰するようになった。彼らは先住民のインド人であり、その子孫がこの地域に残っているなら、当然それはロヒンギャと呼ばれる人々のはずである。実際、そう考えると、さまざまな矛盾点が解消され、すべてつじつまが合った

[註3:現在のミャンマーに定住したピュー族、ビルマ族、そして侵攻してきた南詔国人(おそらくイ族の祖先)はみな民族的に近く、言語的にもさほどの違いはなかった。彼らの共通の祖先は古代羌人や古代氐人だったと思われる。中国では白狼羌族が有力視されている。彼らはチベット・ビルマ語族の南下の第二波で、第一波のクキ・チン諸語族らの南下はそれよりかなり早かった。東チベットの大規模遺跡、カル(Kha rub)遺跡はその民族移動と関係あるかもしれない]




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