(11)ナガーミン(竜王)作戦遂行 



不幸になる前 

 ロヒンギャはビルマ独立以来ずっと迫害されてきたわけではなかった。独立(1948年)の時点では、インドからの移民労働者とロヒンギャは区別されていた。1941年のバクスターの報告によると、インド人労働者は(造船所の)ドック、稲田、ゴムのプランテーション、行政事務の仕事に就いた。一方ロヒンギャは自分たちの村落の農業や漁業に従事した。

 
1947年憲法では、すべてのエスニック・グループが「移民」として認識された[このあたりの政府の方針が、のちの長期間に及ぶ国軍と各民族との紛争につながったと言える] 

 
この時期、インドが独立を果たし、さらに東西パキスタンが分離したとき、ロヒンギャは東パキスタン(のちのバングラデシュ)に加わることを望むと表明した。英国に協力的で、サポートを受けたカレン族(カレン系諸族)と、英国から独立したビルマとの間に戦闘が勃発したことに外部の者の目は奪われがちだが、ロヒンギャの行動が政府を怒らせたのは間違いない。この動きはビルマ政府や国軍に弾圧の言質を与えることになってしまった。結局パキスタンの指導者ジンナーは断わりを入れることになる。国境変更を求めることになり、あらたな火花となりかねないからだ

 
1950年代は、ウー・ヌ首相のもと、ビルマは比較的民主主義的な時代だった。「ロヒンギャはカチン、カヤー、カレン、モン、ラカイン、シャンと同等の国民のステータスを持っている」とウー・ヌ首相は演説で述べている。1962年のネーウィンによる軍事クーデター以降、数年間を除く六十年間、軍事独裁政治が続いているわけだが、50年代は比較的良識的な時代であり、ロヒンギャもビルマという国家の家族の一員と見られていた。

 
当時、十年間のうち八年間ビルマに居住すれば市民権が与えられたので、ロヒンギャを含むすべてのエスニック・グループに市民権が与えられた。ロヒンギャにも「国民登録証明書」が与えられたので、選挙権を持つことができた。そして1948年から1961年にかけて、4人から6人のロヒンギャの国会議員がいたのである

 
62年の軍事クーデター以後も、一党独裁のBSPP(ビルマ社会主義計画党)を支持して、数人の議員が議員としての地位を守ることができた。ここまでは、多民族・多宗教国家によくあるように、ロヒンギャは少数民族として、異教徒(ムスリム)として、最低限の生存権を保持していた


本格的な弾圧はじまる 

 
潮目が変わったのは、1974年の緊急移民条令だった。これによってNRC(国民登録身分証)カード携帯が義務付けられたが、ロヒンギャには外国人登録カード(FRC)携帯が義務付けられたのである。1974年憲法には、「ビルマ連邦社会主義共和国の国民の両親から生まれた者はみな連邦の国民である」という条項があった。ロヒンギャは1947年の時点で正式に国民とは認められなかったため、今や完全に外国人になってしまったのである

 
そして1978年、悪名高いナガーミン(竜王)作戦が半年にわたって行われた。これはビルマ人一人一人が国民であるか、外国人であるかを確認するオペレーションだった。このオペレーションによって、仏教徒や軍隊(国軍)によるロヒンギャへの攻撃の許可が下りたに等しかった。これで翌年までに二十万人のロヒンギャがバングラデシュに避難することになった。しかしこのとき、バングラデシュ政府は難民のほとんどをビルマに送還した

 
つぎのステップは1982年のビルマ市民権法だった。これが制定される前に、ネーウィンは国会演説でつぎのようなことを言っている

 
わたしたち純血のビルマ国民は、わたしたち自身の運命を作ることができませんでした。1824年から1948年まで他者に操縦されていたのです。さて、1948年1月4日に独立を得たときの状況を思い返してください。わたしたちの国の人々が本当の国民、客あるいは混血から成り立っていることがわかります。そして客と客の結合から問題点が生じるのです。これは独立後に起きたことです。客と混血の位置を明確にするかが問われます。

 
彼ら[註:とくにインド系、中国系を指す]には何が何でもお金をもうけようとする傾向があります。わたしたちの国の運命を決める組織のなかでどうしたら彼らを信頼することができるでしょうか。それゆえ彼らに完全な市民権を与えることはないでしょう。それにもかかわらず、彼らにはある程度の市民権が与えられているのです。仕事に応じて食べるだけの収入を得て、つつましい生活を送る権利なら与えることができるでしょう。しかしそれ以上のものを与えることはできません 

 
これによって市民権は、国民、準国民、帰化国民、外国人の四つのカテゴリーに分けられた。このときエスニック・グループの中で、ロヒンギャだけが外国人のカテゴリーに入れられてしまったのである

 
ちなみに62年の軍事クーデター以降、88年の民主化運動までネーウィンは独裁者としてトップに君臨していたので、ロヒンギャが次第に市民権どころか、生存権をも失っていく間、責任者であったことになる。ネーウィンは言うまでもなく、アウンサンとともに、海南島三亜の海軍基地の施設で南機関の厳しい訓練を受けた「三十人の志士」の一人。この日本名(高杉晋)を持つ日本と関りの深い独裁者のもとで民族排除から民族浄化(エスニック・クレンジング)へと進んでいったと思うと、悲しみを覚えずにはいられない

 もっともひどいジェノサイドが起きた2010年代半ば以降の国のトップは、皮肉にもアウンサン将軍の娘のスーチーだった。アウンサン将軍は「国民というものを民族や宗教という狭い範疇に限定すべきではない」と述べているので、将軍が生きていれば、少なくともロヒンギャを弾圧することはなかったろう。そして彼が作成した憲法案が現実化していれば、少なくとも国民登録カードをロヒンギャは手にすることができたはずである。47年に、閣僚候補らとともにアウンサン将軍が暗殺されたのは、かえすがえすも悔やまれることである。 

 
1991年から92年にかけて、国軍らによるあらたな攻撃があり、ロヒンギャ二十五万人の難民が発生した。当時、破壊されたロヒンギャの村の跡地に、送り返されたロヒンギャ難民たちの強制労働によってビルマ人のための村が建設された。こうして毎年のように難民が発生し、バングラデシュ、パキスタン、マレーシア、インドネシア、タイなどの難民キャンプにたどりついた。難民船が悪天候に巻き込まれて遭難することもしばしばあった。タイなどでは奴隷となり、強制的に労働させられることもあった。かつては仏教やヒンドゥー教、イスラム教を信仰し、文明のある生活を送っていたというのに、なぜこんな悲惨な目に遭わなければならないのだろうか



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