補遺 ロヒンギャという呼称について
1799年発行の<Asiatic Research>に掲載されたフランシス・H・ブキャナンの『ビルマ帝国において話されるいくつかの言語の語彙の比較研究』は、あらためて考えると、すぐれた、貴重な、意義深い論文である。この論文の中にはじめてロヒンギャを指す呼称としてルーインガ(Rooinga)が登場する。
なお、ビルマ帝国という呼称に現代人は違和感を覚えるかもしれないが、じつはビルマは版図を拡大し、現在のタイの大半を征服し、1784年には、アラカン(ラカイン)国に侵攻し、併合したばかりだった。他国を吸収したので、帝国(Empire)と呼んでいるのである。
最初に取り上げるのは、アラカンに長く定住しているムハマダン(ムスリム)によって話される言語である。彼らは自らをルーインガ、あるいはアラカンの先住民と呼ぶ。アラカンの先住民のマグ人は自らをヤケインと呼ぶ。これはビルマ人(Burman)によって与えられた名である。(……)ヒンドゥー教徒からは、少なくともアラカンに定住している彼らからは、この国はロシャン(Roshang)と呼ばれている。(フランシス・H・ブキャナン)
アラカンのセンサス(人口調査)は英国人によって何度も実施されているが、ムスリムが民族名で分類されることはなかった。おそらくベンガル人であるのはあきらかなので、民族名は必要ないと考えたのではなかろうか。こうした英国人の怠慢から、「ロヒンギャは外国人」という間違った認識が定着することになってしまった。ブキャナンはルーインガも、マグ人も先住民とみなしている。ルーインガを先に持ってきていることからすると、彼らの方がマグ人よりも早くから定住していることを確信していたのだろう。実際、少なくとも数百年早くルーインガがアラカンに来ていることを、地元民から聞いたに違いない。
1811年に刊行された『クラシック・ジャーナル』には200の言語を比較した小論文があり、そこには<The Rooinga, Rossawn,
Banga, Myanmau, or Burmah, Siam, or Tainay,Tailong>などと民族名が記載され、ルーインガも含まれている。なおRossawnもルーインガとおなじ言葉である。
1815年にはドイツ人民族学者ヨハン・セヴェリン・ヴァテルがアラカンの民族の言語について調査した本を出版している。このときに彼はルインガ(ルーインガ)について言及している。
また1820年にウォルター・ハミルトンは、『ヒンドゥスタンや隣接する国々の、地理学的、統計学的、歴史学的描写』という本を書き、そのなかで「ムガル帝国は、ラカン(ラカイン)という名で知られるこの国のことを、また自身をルーインガ、あるいはアラカンのネイティブと呼ぶマホメダン(ムスリム)が長くこの地に住んでいることを知っている」と記している。
ハミルトンはつぎの三つの点が重要だと考えている。
1 ルーインガという名で自分自身を認識している集団がある。
2 「ルーインガが長い間そこに定住していた」とは、ロヒンギャが1824年以前何百年もアラカンに生きていたということである。
3 英領ビルマ(アラカンと下ビルマ)が誕生する4年前、本が出版された1820年でさえ、ルーインガはアラカンのネイティブと考えられていた。
つまりベンガル人労働者が大量にやって来たとしても、ネイティブのルーインガ(ロヒンギャ)は存在したのである。私はそのネイティブのルーインガは遅くとも4世紀、早ければ紀元前にアラカンにやってきたインド人の末裔だと考えている。人によっては、7世紀か8世紀にアラカンに漂着したアラブ人と地元の人(ベンガル人に近いかもしれない)がミックスしてルーインガになったと考えるかもしれない。私からすると、ベンガル人はイスラム教に改宗する確率の高い民族なので(その理由は第6章で述べる)、仏教徒やヒンドゥー教徒のインド人(ベンガル人)がムスリムになったとき、ルーインガが誕生したのである。
一方、遅れて10世紀頃にアラカン(ラカイン)やってきたラカイン人は、いつしかマグ人と呼ばれるようになっていた。[註:マグ人といえば奴隷売買を主とする海賊として知られていて、とくに16世紀頃、ポルトガル人と組んでからは、チッタゴン地区を中心に広く暴れまわっていた。1603年には大国ムガル帝国の村々で略奪を働いて回ったあと、堅固な要塞に攻め込んで戦っているので、ガレー船と大型の戦艦を擁する本格的な水軍を持っていたと思われる] しかし、マグ人が「海賊」「ならず者」「略奪者」のイメージが強かったせいか、自らをラカイン人(ロハンと語源は同じだろう)、ビルマ語発音でヤカイン(ヤケイン)人と呼ぶのを好むようになった。
2世紀の地理学者プトレマイオスによれば、アラカンの沿岸には198カ所の交易センターや町があった。ナフ川からパゴダまでの国をアルギュレ(Argyre)と呼んだ。
ラカインの名は羅刹(ラーカシャサ、ラーカ、ミャンマー語でバルー)から生まれたのではないかという説が根強くある。仏教の伝道師らがアラカンにやってきて、ここの住人があまりにも獰猛な性質であるゆえ、ラカプラ(Rakhapura)と名づけたという。
アラカンをペルシア人はレコン(Recon)と、アラブ人はアル・レコン(Al-Recon)と呼んだ。アラカンはこのアル・レコンがもとだという説がある。
アラカン(ラカイン)の旧都ムラウーの8世紀のアナンダ・サンドラ石柱の碑文には、アレカデーサ(Areka Desa)と記されている。この時代はヒンドゥー教王朝の時代。アナンダ・サンドラは、アーナンダ・チャンドラである。
12世紀から15世紀のミャンマーのバガンとアヴァの碑文には、アラカンはルクイン(Rukuin)として言及されている。
ホブソン・ジョブソン辞書(アングロ・インド語の辞書)やスリランカ年代記、ターラナート・インド仏教史には、アラカン(Araccan)、ラカンガ(Rakhanga)、ラッカミ(Racchami)、ラカン(Rakhan)、レコン(Recon)などさまざまな名前で現れる。なおラカインはラカン(Rakhan)のビルマ語発音(母音が二重母音になりやすい。a⇒ai)と考えるべきだろう。
1420年、ニッコロ・デ・コンティはアラカンをラッカニ(Raccani)と呼び、1516年、ドゥアルテ・バルボサはそれをアラカン(Arraccan)として引用し、スリランカ年代記がラカンガ(Rakhanga)と呼んだ。ベンガル語ではロハン(Rohan)と呼ばれた。
ペルシアの歴史家ラシードゥッディーン(1249-1314)はアラカンをロハン(Rohan)と呼んでいる。そしてロハンはモンゴルのハーンに属していると記す。
オスマン・トルコのセイディ・アリ提督はアラカンをラカンジ(Rakhanj)あるいはラカン(Rakhang)と呼んでいる。『アイネ・アクバリ』(ムガル帝国の歴史家アブル・ファズル著)『バハリスタニ・ガイビ』(ムガル帝国の提督ミルザ・ナタン著)『セイル・ムケタリン』(インドの歴史家グラーム・フセイン・ハーン著)などの著者たちは、アラカンをアルカウン(Arkhaung)と呼んでいる。
英国の地理学者ジェームズ・レンネルは地図にロシャン(Roshang)と書き入れている。これは中世のベンガル語の著作をもとにしているからだろう。『ラジャマラ年代記』においてもロシャンである。アラカンの宮廷詩人だったシャー・アラオルもロシャンと呼んでいる。shとhは音が交替しやすく、現在でも、ムスリム・ベンガル人がロハンと発音するのに対し、ヒンドゥー・ベンガル人はロシャンと発音する。
英国の商人、旅行家のラルフ・フィッチ(1550-1611)は、ロアン(Roan)国であることを認識したうえで、アラカンという名を与えた。これ以来欧米人はこの国をアラカンと呼ぶようになった。
以上のことから、ラカイン(アラカン)はもともとロハン、ロシャン、ラカンなどと呼ばれてきたことがわかる。アラカンは上述のようにアラブ人式の「アル(定冠詞)+ラカン」と思われるが、欧米人はこれを採用し、一般にアラカンと呼ぶようになった。
ラカインもまた、ラカン(Rakhan)がビルマ語発音でRakhain(綴りはRakhine)になったものだろう。ラカイン人はラカイン・ター(Rakhine Thaa)である。
ウー・ミン・チョーによれば、チャッタガム(Chattagham)すなわちチッタゴンの人がチャッタガニヤ(Chattaghanyia)になるように、ロハンの人はロハンギャとなる。正直、この法則性はよくわからないが、実際にそのように話されているのなら、そのとおりなのだろう。実際それはロハンギャでなく、ロヒンギャと発音される。そしてそれはブキャナンのルーインガときわめて近い。そしてこの呼称は、ビルマ系ラカイン人がロハン(アラカン)に侵入してきた957年よりもずっと前から使われてきたと考えられる。
ロヒンギャという呼称がきわめて古いというウー・チョー・ミンの主張はわかりづらいかもしれないので、かわりに弁明しよう。彼はルーインガ(rooinga)という呼称がきわめて古いルーヒンガ、ないしはルーヒンギャから来ていると考えているのだろう。ラルフ・フィッチが言う地域名ロアンは、ロハンから「h」が脱落したものとみなされるのだろう。
そもそもロヒンギャという名称がミャンマー独立後に呼称として決定されたものだとしても(ミャンマー政府は認めていない)ロヒンギャが突如外国人になるわけでもないだろう。じつは1961年5月にラカイン・ムスリムのかわりにロヒンギャと呼ぶという閣議決定がなされているのだが、翌年にネーウィンによる軍事クーデターが起こされたせいか、ないことになってしまった。
民族の呼称を一つに決めるのはむつかしいものだ。日本人だって、日本や日本人という正式名称とは別の名でふだんは呼ばれていたはずだ。国名は倭だったろう。でもワと呼ばれていたはずがない。現在の音はウォであり、古代はウとウォの中間ぐらいだったかもしれない。また倭人ではなく、倭奴(韓国語でウェノム)と呼ばれていたかもしれない。
ウー・ミン・チョーはロヒンギャという名称に関して一部の歴史学者を激しく批判している。
「最初アラカン人(ラカイン人仏教徒)は歴史の裏付けがないとしてロヒンギャという言葉を否定した。歴史上の証拠がたくさん明るみになると、今度はおなじ人たちが、ロヒンギャという名称はベンガル人がラカインの人々に対して用いたものだと主張するようになった」。ラカインに住む人すべてをロヒンギャと呼んでいたなどということはありえないとウー・ミン・チョーは断言する。なぜならラカイン人はマグ人と呼ばれていたからである。マグ人といえば(マガダ人という意味ではなく)海賊、無法者のイメージが強かった。ロヒンギャはアラカンのムスリムだけを指す言葉だった。
彼がとくに批判するのはウー・キン・マウン・ソーである。彼の「ムスリムの分離独立論者の一部は自分がアラカンのネイティブであるかのようにこの名前を利用した。アラカン(ラカイン)の真のネイティブのベンガル語の名を強奪し、ロヒンギャと名乗ったのである」という主張をばかげたものとして退けている。こうしたヘイトに満ちた主張はアカデミズムにほど遠いといえる。