(17)中国から見たロヒンギャ
ロヒンギャかロヒンヤか
歴史的に見てロヒンギャと中国は直接的な接点はほとんどないが、ミャンマーと隣接する大国であり、その影響力を無視することはできない。それにミャンマー人の祖先は古代羌人であり、中華民族の一つであるという意識があり、ミャンマーのことは他人事ではないのだ。その中国の目にロヒンギャはどのように映っているのだろうか。
ロヒンギャ(ローヒンギャ)は漢字で羅興亜(luo xing ya)と書く。ロシンヤである。中国語にはヒの音がないので(だからヒトラーもシトラーになる)、ロヒンヤと同等である。Rohin-gyaでなくRohing-yaとみなすのは、タイ語とおなじだ[註:ただ、実際はロヒンギャと発音する可能性もある。若新嘉ruo
xin jiaと表記すればよさそうなものだが、中国人はそのような漢字の選び方をしない]。欧米の識者はロヒンギャ(ロヒンガに聞こえることも)と発音し、バングラデシュ人はよりはっきりとロヒンギャと発音する。ミャンマー人の発音はロヒンジャである。
以下に、中国の一般的なロヒンギャの見方を紹介したい。一言で言うなら、ミャンマー政府の見方と大幅に隔たっているわけではない。当然私の考え方とはかなり違うが、ミャンマー中枢からどういうふうに見られているかを知る一助となるだろう。
<国籍のない民族ロヒンギャ>(中国版ロヒンギャ簡史) 抄訳:宮本神酒男
ロヒンギャは、自らの説明によれば、アラブ人、インド人と土着の人々の混血の末裔で、ミャンマー・ラカイン州に千年も住んでいるという。イスラム教を中心に考えると、イスラム教が東方へ伝播していくなかで、アラブ人やテュルク人貿易商人とベンガル人や土着の人々が混じったということになる。
しかしミャンマーの仏教徒は「(ロヒンギャは)近代になって現れたよそ者であって、ミャンマーの家族の一員ではない」と主張している。
[註:原文はミャンマー人の祖先についても触れている。最近の中国では、緬族(ビルマ族)の先祖は白狼羌族と見なされている。彼らは古代羌人の一つで、もともとはチベット高原の北東部に住んでいた。古代羌人はチベット・ビルマ語族と言い換えてもいい。しかしそのなかで白狼羌族と特定できるのだろうか。1世紀の『白狼歌』(西夏文)から、白狼語がナシ語に近いことがわかっている。プミ語に近いと考える専門家もいる。ナシ族、プミ族をはじめとするチベット・ビルマ語族の共通祖先と考えられるのだろう。白狼羌族は南詔に帰順したが、一部は南方へ逃げた。その人々がモン族などと混じって形成されたのがビルマ族だともいう]
12世紀以降ベンガルはイスラム化した。ベンガルが肥沃な土地だけに、土地・資源をめぐって争いがあり、多くのムスリムが東へ移動し、アラカン王国(ミャンマー・ラカイン州)へ入った。ベンガルから南北に走るラカイン山脈(アラカン山脈)に沿って天然の移動ルートができていたが、同時に山脈はラカインとビルマを隔てる障壁となった。
14世紀はじめ、アラカンには一万人に近いムスリム移民がいた。彼らは商人、イスラーム聖職者、農民などで、知識や富をもたらしたので、王国から礼遇を受けた。
1364年、ビルマのバガン王朝滅亡から半世紀のち、アヴァ王朝成立。
1406年、アヴァの大軍がアラカンに侵入した。国王ミン・ソー・モン(ナラメイッラ)はベンガルに亡命し、ムスリム王の庇護を受けた。ミン・ソー・モンは23年間ベンガルで亡命生活を送った。アヴァ朝とペグーの40年に及ぶ戦いが決着し、ミン・ソー・モンは今が国に戻るチャンスと考えた。彼は臣下となることと引き換えに、ムスリム王からムスリムの軍隊を提供してもらった。彼は仏教の信仰を保持しながらも、ベンガルの援護に感謝し、イスラム名スレイマンを名乗った。
アラカンを攻略するにあたって、彼はムスリム兵を重用した。彼はベンガルに傾倒し、イスラム文化を好み、ベンガルの官僚機構を取り入れた。アラカン語でムスリムの人々はロハンと呼ばれた[註:ロハンは地域(アラカン)を表わす]。第二次大戦後に彼らはロヒンヤと呼ばれるようになった。
1429年、ベンガルのスルターン国の援助で(ビルマ人の)アヴァ朝と(モン人の)ハンタワディの統治からのがれることができた。ただし建前上、ベンガルの属国となった。
仏教を信仰するアラカン軍とベンガルのムスリム大軍は何度も戦い、17世紀まで矛を収めることはなかった。ベンガル人の大都市チッタゴンは何度かアラカンに侵略された。戦争中も文化や人の交流がやむことはなかった。さらに多くのムスリムがアラカンに移住した。18世紀はじめには10万人近くの人口があった。[註:ムガル帝国の皇子シャー・シュジャのアラカン亡命について触れないのは不可解。これがきっかけでアラカンはムガル帝国の属国になるのだから。おそらくムガル朝の亡命皇子を預かりながら、娘に結婚を迫ったり、財宝を奪ったり、皇子の家族を殺したり、奴隷にしたりと、ムラウー朝国王は信じがたい行動を取った挙句、ムガル朝の怒りを買って攻撃を受け、支配下に置かれた。ミャンマー政府はこの屈辱の歴史をなかったことにしたいのだろう]
18世紀半ば、ビルマ族のコンバウン朝が躍進した。しかし英国がプラッシーの戦い(1757年)に勝つと、アラカンを含めたベンガルの情勢は悪化した。コンバウン朝ビルマは1765年に清の八旗軍と戦い、1767年にはタイに侵攻してそれを併合した。そしてついにコンバウン朝の大軍が1785年、アラカンの都ミャウウー(ムラウー)を制圧した。
情のかけらもないコンバウン朝軍は虐殺を執行し、7万人のムスリムが死亡するか行方不明になり、3万5千人のムスリムがベンガルに逃げた。ミャンマー西部のムスリムはこうして一掃された。
アラカンを併合したあと、ビルマのコンバウン朝はベンガルとじかに接することになった。19世紀はじめ、フォート・ウィリアムの総督は何度も使者をビルマに派遣し、フランスと組んで英国の植民地政策を妨害しないこと、また港の開放と首都に英国大使を置くことを要求した。1823年、英国はベンガルとビルマの国境地帯に軍隊を派遣した。翌年、ビルマ軍が英国の駐留地を襲うと、英国は1万1千人の英印軍を結集し、海からアラカンやヤンゴンを襲撃した。不平等条約であるヤンダボ条約が結ばれ、アラカンとタニンタイ(テナセリム)が割譲され、百万ポンドの賠償が求められた。
ビルマの虚弱性を見抜いた英国は1852年にふたたびビルマに侵攻し、ビルマでもっとも豊かな土地である下ビルマを占領した。ここにビルマ省が成立し、英領インドに組み込まれた。
土地の豊かなベンガルは英国の南アジアにおける橋頭保となった。英国はベンガルの農業の発展に力を入れるとともに、ベンガル人を働き手として近隣の英植民地に送った。
下ビルマは土地が肥沃だったので、稲作のために大量の労働力が必要とされた。英国はチッタゴンから大量のムスリムを送り出したが、ベンガルに接するアラカンは主要な目的地のひとつだった。
初期のムスリムは季節労働者であり、稲の収穫後、彼らのほとんどはベンガルに帰った。
英国人は「夷を以て夷を制す」という政策を取っていた。ムスリムはビルマに深く根ざしているわけではなかったので、英国の統治に反抗することはないと見られていた。英国はこのムスリム移民を抱きこんでビルマ人仏教徒に圧力をかけた。ムスリム移民はアラカンに土地を得て、定住者が増えていった。
1885年、英国は第三次英緬戦争を起こし、ビルマを完全に併合した。英領インドの大多数はヒンドゥー教徒だった。彼らは東部のベンガル湾を「黒水」と呼んでいた。いったん「黒水」を超えると、自身のカーストを失うことになった。それゆえビルマに移住するヒンドゥー教徒はそれほど多くなかった。[註:当時東ベンガル人の大半はすでにムスリムだった。現在のバングラデシュにおいて当然ほとんどがムスリムだが、意外とヒンドゥー教徒も多く、9%である。マレーシアに移住したインド人は南インド出身のヒンドゥー教徒が多いので、「黒水」を越えて云々は正確ではない]
ベンガル・ムスリムは似た宗教的制限がなく、ビルマに近かったので、土地が肥えているが人の少ないアラカンに多くのムスリムがやってきた。
1872年の英国の人口調査によると、アラカンのムスリムの人口は約6万人で、1922年には約22万人にまで増加している。ムスリムは、アラカンの全人口の約40%を占めている。アラカンの首府であるシットウェにおいてはムスリムは約60%を占めた。英国のアラカン駐在の移民官は「チッタゴンから来たムスリム移民でごった返していて、まるでここが彼らのふるさとのようだ」と記している。
英国の支持のもと、一部のムスリムは仏教徒の土地を奪うと同時に大地主となり、ビルマ人に労働をさせた。土地を失ったビルマ人は都市部に入り、都市部のムスリムとの間に摩擦が生じた。[註:以下はアラカンではなく、ミャンマー全体のムスリムのことなので注意]
1930年、ビルマの港湾部の労働者がストを挙行すると、港湾部はビルマ人労働者を雇用した。ストが終わったあと、雇用主は港湾部においてムスリム労働者のほうが熟練していると認識し、ビルマ人労働者を解雇した。このことがビルマ人の怒りを買い、彼らはあちこちのムスリム移民を襲撃した。その結果、数百人のムスリムが殺され、モスクやヒンドゥー寺院が破壊された。
ムスリムの流入を阻止するために、ビルマの民族主義者たちの襲撃はさらに規模が大きくなった。ビルマ中に「インド人はわれらの財と女を奪っていくぞ。やつらがめざすのは、われらを根絶やしにすることだ」という歌謡がはやった。
「われらビルマ人党」(We Burmans Movement)のリーダシップのもとに、ビルマ民族独立派は口々に「ビルマ人はビルマに属す」と叫んだ。アウンサン将軍もこれに属した。[註:「われらビルマ人党」はタキン党として知られる]
1942年1月、日本軍はタイに基地を作り、英領ビルマに侵攻した。日本軍の兵力は8万人近くあり、英インド軍の第17師団だけではとうてい太刀打ちできなかった。5月には日本軍はビルマ全域を支配下においた。
日本軍がビルマからインドへ入ってくるのを防ぐため、ベンガル・ムスリムでVフォース部隊を組織した。まずはビルマで偵察の任務につかせた。
Vフォース部隊はアラカンに潜入後、仏教徒の寺や村を破壊した。1945年に戦争が終結する頃までに約十万人の仏教徒が殺された。
1945年、英国軍がふたたびビルマを占領したときには、アラカン北部はムスリム地区になっていた。仏教徒の村はみな破壊されていたのである。「北にムスリム、南に仏教徒」という構図ができあがってしまった。
1948年1月4日、ビルマは独立を宣言した。仏教徒たちが国家独立を祝っているとき、ロヒンギャの悲劇は幕を開けようとしていた。
大戦後、ベンガル・ムスリムの後裔は民族の自称をロヒンギャに決定した。アウンサン将軍の考えではムスリム移民の地位を承認し、国会議員もロヒンギャから4名が選ばれるはずだった。
ビルマが独立を果たすとともに英領インドもインドとパキスタンに分かれた。東ベンガルもムスリムが集中している地域なので、イスラームを国教とするパキスタンに加入した。
独立した当時は、ビルマは世界でも最大級の米の輸出国だった。一人当たりのGDPもアジアではトップクラスだった。ロヒンギャには、ムスリムの努力があってこその経済発展という自負があった。
ロヒンギャは彼らが生活するラカイン北部を東パキスタン(のちのバングラデシュ)に編入するよう求めた。しかしムスリム民族自治州さえ認められなかった。不穏な動きを察知した当地の仏教徒の役人たちはこの地区から避難した。
ビルマ軍はロヒンギャが武装するのを警戒した。ビルマ政府はロヒンギャの法的身分の認証を取り消した。そして彼らをベンガル人、あるいはチッタゴン人と呼び始めた。
1950年代、ビルマ族の中央政府は「大ビルマ人主義」を掲げるようになった。少数民族を同化し、コントロールすることを推し進めようとしたので、各民族は対抗して武装しはじめた。
1962年はビルマの国防軍総司令官ネーウィンがクーデターを起こし、軍事政権を樹立した。
政府は政治、軍事、経済に関し言うことを聞かない少数民族に対しては強気に出た。ロヒンギャの独立熱は冷めていった。1971年の第三次印パ戦争においてパキスタンを制圧したバングラデシュは独立を果たした。これに刺激を受けたロヒンギャはふたたび武装しようとした。
ネーウィン政権はロヒンギャを抑圧する一方で同時に公的な身分カードを発行した。しかしロヒンギャは外国人身分証しか取得できなかった。このため彼らは教育を受けることができず、仕事の機会もなかなか得られなかった。
1977年、「不法移民を探して捕らえよ」というスローガンをかかげた「竜王キャンペーン」が実施された。ロヒンギャが集中する地域で6か月にわたって掃討作戦が実行された。大量のロヒンギャが殺され、彼らの村は焼き払われた。
軍事政府は経済建設の能力に乏しかったが、不法移民を検挙したということでビルマ仏教徒のほとんどはその作戦を支持した。
彼らからすれば、いわゆるロヒンギャはもともと彼らを搾取抑圧していたベンガル・ムスリムの後裔だった。ビルマの土地にいるべきではないと彼らは考えたのである。竜王作戦の結果20万人のロヒンギャがバングラデシュに逃れた。
竜王作戦がロヒンギャの苦難の歴史の最終章ではなかった。1982年、ネーウィン政権は新しい市民法を発布した。すなわち市民には1823年の第一次英緬戦争以前に家族が居住していた証拠を提出するよう求めたのである。ロヒンギャの大多数が、英国がビルマに侵攻したあとに移住してきたため、証明する手立てがなかった。
ロヒンギャ語はベンガル語にビルマ語ラカイン方言が融合した言語である。しかしビルマ政府から承認されることはなかった。ネーウィンは新しい市民法を発布する場でつぎのように述べた。
「人道主義の前提として、われらの安全が脅かされないことが必要とされる。国家の運命を決定するとき、彼ら(ビルマの市民権を持っていない者たち)を排除しなければならない」
1988年から1992年の間にネーウィン政権は退陣し、新しい軍事政府内閣が組まれた。そしてロヒンギャから徴税することになり、多くの税目が制定された。これが引き金となって第二次ロヒンギャ難民が発生した。このとき約25万人のロヒンギャがバングラデシュに逃れた。
国をまとめるため、しばしば軍の矛先をロヒンギャに向けて、国民の目を社会問題からそらそうとすることがある。たとえばロヒンギャの民族軍であるロヒンギャ救世軍(ARSA)が頻繁に軍施設をターゲットにし、村の仏教寺を襲撃するのは都合がよかった。2012年から2017年にかけて、大規模な衝突が九度もあった。
2017年8月、ロヒンギャ救世軍はラカイン州内の軍警察関係の施設30余カ所を襲撃した。しかし軍政府はすぐにロヒンギャ居住区を掃討した。この結果、72万人のロヒンギャがバングラデシュやマレーシアなどに逃げた。国連事務総長グテーレスはこれを典型的なエスニック・クレンジング(民族浄化)として激しく非難した。
ミャンマーの軍事政権はロヒンギャを単一の民族とは認めない。彼らが民族として語るのを許さない。ロヒンギャは、外面は見かけも肌の色も、内面は宗教信仰も、ミャンマー人と大きく異なっている。
近代において英国の植民地であったことは悲痛な記憶として残っている。ロヒンギャは植民地の歴史のいわば負の遺産なのである。当時の英国の人口政策が現在の結果を招いたともいえる。ミャンマーの軍事政権はどんなことがあってもロヒンギャを受け入れることはないだろう。
註(付記):まず、ロヒンギャをロヒンヤとしていることについて。ロヒンヤが正しいなら、50年代にミャンマーで命名するときに、Rohing-yaなどと、わかりやすく表記すればよかった、ということになる。もっとも、外国語の地名や人名を漢字で表記する場合、特殊なルールがいくつもある(たとえばninに当てる漢字が少ないので林linを当てる、など)ので、この場合も、ロヒンヤと書いてロヒンギャと読むのかもしれない。また、ラカイン(Rakhine)を「若開(ruo
kai)」と表記しているが、これにも根拠はあるのだろう(私にはわからないが)。
両論併記という形でロヒンギャが主張する先住民説を取り上げるのは評価できるが、「アラブ人、インド人と土着の人々のミックス」というのは何か投げやりな説明だ。最初に住んでいたのはインド人(ベンガル人)であり、ビルマ人(のちのラカイン人)が支配者になってからも、インド人(ベンガル人)の大多数は住み続けた。彼らははじめ仏教徒であり、ビルマ人が10世紀にラカインにやってきたとき、王朝はヒンドゥー教を信仰していた。その後ベンガルのほかの地域と同様、イスラム教を信仰するようになった。
もっとも賛同しかねるのは、ビルマ・コンバウン朝の軍隊がアラカン(ラカイン)に侵攻し、7万のムスリムが死亡するか行方不明になり、3万5千人がベンガルに逃げた、そしてムスリムは一掃されたという箇所である。一掃されたというのは誇張だ。
このとき(1785年頃)から1798年までにアラカンの人口の3分の2がチッタゴン地区に逃亡したという。彼らの一部を受け入れたのは、英国のコックス大佐だった。なぜならそこは英領インドだったのである。難民アラカン人が定住した場所はコックスバザールと呼ばれるようになった。現在のロヒンギャ難民の多くが暮らすあのコックスバザールである。つまり現在のミャンマー・バングラデシュ国境からそれほど離れていない地点なのだ。帰ろうと思えばいつでも帰れる地点と言ってもいい。1826年の時点でどれだけ帰ったのかはわからないが、センサス(人口調査)によればアラカンの全人口の3割がムスリムとなっている。もうすでにかなりの難民がアラカンに戻っているが、アラカンが英領になったことで、1826年以降さらに多くが帰ったことが推測できる。
下ビルマは土地が肥沃で大農業生産地帯であり、労働力を必要としていた、という説明は理解できるが、ラカインは下ビルマではないのに、紛らわしい書き方をしている。季節労働者が多かったことについて書いているのは評価できるが、それも初期だけだったかのようなニュアンスを漂わせている。実際チッタゴン人は稲作の季節だけアラカンで働いて、乾季は漁業でもやっていればいいではないか(チッタゴンには漁民が多い)。
ロヒンギャが不法移民の外国人であってほしいと願っているのは、ミャンマー政府である。二千年前から住んでいる先住民というのでは、都合が悪い。ロヒンギャの人口増加は移民の不法滞在以外に説明できるのか、と思う人がいるかもしれない。
しかし忘れてはならないのは、ロヒンギャが考えられないほど出生率の高い民族ということだ。バングラデシュの難民キャンプには百万人のロヒンギャが暮らしているが、毎日平均95人の新生児が生まれているという。出生率の高いバングラデシュ人の二倍である。もちろん難民キャンプでは出生率が高くなるのかもしれないが。最近のパキスタンの急激な人口増加を見ると、イスラーム社会は出生率が高いように思われる。
既述のように、中国でも数千万人の餓死者が出た1960年前後の「大躍進」の頃、出生率が非常に高かった。その後の文化大革命の間も、人々は極貧に苦しんでいたのに、出生率は高かった。貧しくて危機的状況にあるとき、なぜか出生率が高くなるのが、人間という生き物である。
少数民族問題を抱えているという意味では、ミャンマーの状況は中国と似ていた。ともに少数民族を抑圧し、弾圧をしてきた。しかし中国はさまざまな少数民族優遇策を講じてきたので、内戦の続くミャンマーよりははるかにうまくやってきた。しかしもっとも手ごわいイスラーム系少数民族ロヒンギャに「不法移民疑惑」があるのは、中国人にはうらやましかったかもしれない。
ただ、私が論じてきたように、そもそも古代からラカインに住むインド人は滅亡したわけではなく、現代の「インド人」ロヒンギャにつながっている。彼らはビルマ系ラカイン人がやってくる少なくとも数百年前からラカインに住む先住民(ネイティブ)なのである。英植民地時代にベンガルから大量に移民がラカインに入ってきたという説にも疑問を呈してきた。季節労働者が多かったことは顧みられることがなかった。また、自然な人口増加も考慮されなかった。難民キャンプのこととはいえ、ロヒンギャは考えられないほど出生率が高い人々なのである。
ミャンマー軍事政権だけでなく、ムスリムおよびイスラム教を嫌うミャンマー人仏教徒自体がロヒンギャ不法移民説を信じている。一部の(ミャンマー人にとっての)外国人もそうである。彼らは間接的にロヒンギャ弾圧に手を貸していると言えるだろう。
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