(18)ロヒンギャ地区の囚人村
囚人が送られるナ・タ・ラ村
ナ・タ・ラ(Na Ta La)というのは、ミャンマーの国境地域と民族の開発省(the Ministry for the Progress of
Border Areas and National Races)の略称であり、国境省(the Ministry of Border Affairs)の旧称である。ナ・タ・ラ・プロジェクトに基づいて、ナ・タ・ラ村がたくさんつくられ、ナ・タ・ラ学校が建設されてきた。
マウンドー、ブーティダウン、ラテダウンの三つの町に50のナ・タ・ラ村があるという。フランシス・ウェイドはこのうちの一つ、2004年につくられた水田に囲まれた丘の上にあるアウン・タル・ヤル村を訪ねた。ここは元囚人の村だという。ただし仏教徒の囚人に限定している。
村までの轍だらけででこぼこになった道は、兵舎の間を通っていた。それは1992年に作られたナ・サ・カ国境防御隊の兵士のための兵舎だった。囚人村はじつはこのあたりにいくつかあったらしいが、今も残るのはこの村だけということだ。囚人村でなくなっても、犯罪者だらけの村がいくつもあるということになる。
村人たちはバゴーやマンダレー、ヤンゴンのインセインなどのミャンマー中の刑務所からやってきた。なかには刑務所と囚人村を行ったり来たりしている者もいる。ある村人は、2004年にデルタ地方のミャウンミャ刑務所から解放されて囚人村にやってきたが、また罪(強盗)を犯して、七年の刑を宣告され、今度はブーティダウンの刑務所に入った。二年半獄中生活を送ったあと、2013年、刑期は残っていたが解放され、この囚人村に戻ってきた。
この村の監視人は「ラカインにはムスリムが多すぎる。だからここに(たとえ受刑者であれ)仏教徒を送り込んでバランスを取っているんだ」と述べたという。
村人の生活は厳しかった。食料の割り当てはなくなり、職を探すのは不可能だった。耕作の技術は持っていなかったが、農耕でなんとかやっていくしかなかった。ミャンマー中央に戻るだけのお金も持っていなかった。
ほかの(囚人村でない)村も同様だった。隣村のシュウェ・イン・エー村は、2005年に建てられた、主にヤンゴンからの「定住者第11波」で成している。彼らは入植するときに2エーカーの土地と1台のトレーラーをもらった。しかし何年かたつと、元の住人はいなくなり、アル中や博打好きなどのはぐれ者ばかりになってしまったという。この村では、というよりラカイン北部のどこでも、マラリア患者がたくさん出ていた。ある村で、ウェイドは床に寝転がった村長さんにつまずいて転びかけた。マラリアにかかった村長は厚い毛布をかぶり、ブルブル震えていたのだ。
こうしてラカイン北部のナ・タ・ラ村は犯罪者が多く、治安も悪かったが、仏教徒であればだれでも歓迎された。本来はこの地域には、ムスリムの村がたくさんあったはずである。仏教徒の入植者が増えることによってロヒンギャが戻ってくる場所をなくそうとしているのである。
ウェイドはヤンゴン北郊に住む退役軍人でナ・サ・カ国境隊長、かつラカイン州の元国境省副大臣ウー・マウン・マウン・オーンにインタビューしている。
「ずっと昔、マウンドー地区はラカイン州に属していました。今も属しています。ベンガル人のいくつかの村はラカインの名を持っていますし、村々にはたくさんのパゴダがあります。これはつまり、ここはかつてラカイン人が住んでいた場所なのです」
さらに彼は、ムスリムの人口が突如大幅に増えたと嘆く。
「政府がナ・タ・ラ村をたくさん建てたのは、ラカイン中にラカイン人の人に住んでほしいからです。彼らの州にかたまって住んでほしいからです。そうでなければラカイン人に未来はないでしょう。かわりにどこにでもベンガル人がいることになるでしょう。彼らはさらに自分たちの土地を欲しがるでしょう」
この退役軍人が歴史をほとんど知らないのはどういうことなのだろうか。政府幹部クラスも、ラカイン北部に住んでいたのはラカイン人だと信じ込んでいるのだ。第一次英緬戦争以前でさえ、ラカイン北部の人口の四分の三はムスリムだった。彼が間違っているかどうかでなく、重要なのは、この歪曲された歴史を多くの人が信じていることなのだ。
ナ・タ・ラ学校
ナ・タ・ラ村が建設される一方で、ナ・タ・ラ学校は少数民族の多い地域に建てられた。そういう地域では、もともとキリスト教のミッション・スクールが村の生活の中心となっていた。そのおなじ場所に仏教徒の学校が建てられたのである。政府の肝いりで、最初のナ・タ・ラ学校ができたのは1994年だった。国内の異なる文化同士が信頼を築き、理解し合うのが目的とされた。理念そのものはすばらしかった。
寄宿学校なので、同じ屋根のもとで、仏教徒とクリスチャンの生徒が交流した。人種偏見や宗教問題に触れるような習慣やふるまいはできるだけ避けられた。ナ・タ・ラ学校で学べば、のちに地方自治体で職が得られると約束された。
2011年までに全国で29のナ・タ・ラ学校が建てられたが、三分の一はチン州(ラカイン州の北隣)だった。安価な、あるいは無料の教育、食べ物、寄宿生活をエサに学生を呼び込んだ。彼らは強制的にキリスト教から仏教に改宗させられた。彼らは頭を剃り、僧衣を着せられ、仏典を学ばされたのである。強制改宗を拒むと、徴集されて軍隊に入ることになった。
ラカイン州でもナ・タ・ラ村が作られるだけでなく、ナ・タ・ラ学校が建設された。ロヒンギャに関する目標は、ロヒンギャを同化することではなく、その力を弱めることだった。「もうとっくの昔にロヒンギャは異質すぎて、国に取り込むのは不可能と断じられていた」(ウェイド)のである。クリスチャンの子供ならなんとか仏教徒に改宗させることができたかもしれないが、ムスリムの子供を改宗させるのは不可能に近かった。もっとも、クリスチャンの子供もそう簡単には行かなかっただろうが。
囚人村までできて……ロヒンギャ難民に帰る場所はない
ナ・タ・ラ村はいわば入植村だ。ここではアラカン人仏教徒とミャンマー人仏教徒両者を積極的に迎え入れている。本来なら、1784年のビルマ軍によるアラカン侵攻・併合があったので、両者は敵対関係にあるはずだ。実際AA、すなわちアラカン軍(Arakan
Army)は現在も国軍と戦っている。しかし仏教徒同士で、ロヒンギャという共通の敵があり、ロヒンギャ駆逐という共通の目標があるので、限定的な範囲において、うまくやっていけるのである。
しかも囚人だらけの入植村は都合がよかった。ロヒンギャに危害を加えるといった犯罪行為に手を染めても、誰からもとがめられなかった可能性がある。騒乱が頻発する場所柄、入植希望者が多いとは思えないが、刑期が短くなり、土地まで与えられるとなれば、受刑者には魅力的な話だっただろう。
1942年、ムスリムはラカイン北部に、仏教徒はラカイン南部に住み分ける構図が生まれた。しかし北部のマユ地区はもともとムスリムの人口が圧倒的に多かった。タイの深南部と呼ばれる地域(ここも住民の四分の三以上がムスリム)のように、ムスリムが集中していた。
1970年代以降、とくに2010年代以降ロヒンギャ難民が大量に発生し、多くのロヒンギャが国外に出てしまった。ロヒンギャがいなくなった空白地帯にナ・タ・ラ村が作られ、仏教徒によって穴が埋められる形になった。ロヒンギャ難民が戻っても、そこにはもう彼らの故郷はなくなっているのだ。ロヒンギャ駆逐と仏教徒入植は何十年もかけて進めてきた大事業であり、それが完成しつつあるいま、後戻りはできないのだ。
現在ラカインに居住する百万人近くのロヒンギャに加え、難民となっている人々に市民権を与え、ミャンマー語の教育を実施することは可能だが、実際ミャンマー政府が彼らを迎え、生活の場を用意し、安全を保障できるかと言えば、容易ではないだろう。ロヒンギャを外国人とみなす認識があらためられないかぎり、明るい展望は開けてこない。
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