(10)アウンサン将軍暗殺が影を落とす 

 ひとりの指導者の死が歴史を変えることがある。国の運命だけでなく、民族の死活にも影響を与えてしまうことがある。

 アウンサン将軍はよく知られているように、海南島三亜で日本軍の南機関によって訓練を受けた三十人の志士のひとりである。日本の援護を受けて独立をめざしたが、敗色が濃厚になった1945年3月に英国側に寝返り、日本軍に銃を向けている。しかしビルマ(ミャンマー)が独立を果たす1948年の前年、6人の閣僚候補とともに暗殺された。

 建国を目の前にした1946年12月のアウンサンの言葉を知れば、彼を喪失したことがいかに大きかったかがわかるだろう。

「今日では、世界のどこでも、国籍の定義を人種や宗教などの狭い範囲に限定することはできません。国家は、それぞれのコミュニティの権利を、自分たちに所属していないかもしれない者たちにまで拡大しています。彼らの住居があり、ともに暮らし、生きていくと決めたからです」

 つまりバマー族(ビルマ族)であろうと、何族であろうと、仏教徒であろうと、クリスチャンであろうと、ムスリムであろうとも、場合によっては外国人であろうとも、等しく権利を持つ、ということである。アウンサンは自分の属する政党の中からも聞こえてくる仏教を国家宗教にしようという動きを懸命に抑えた。もし仏教国家になってしまったら、キリスト教徒の多い少数民族とうまくいかなくなるのは明白だった。カレン族だけでなく、カチン族やチン族、ナガ族と戦うことになりかねなかった。実際、クリスチャン民族や共産党軍との戦闘がはじまり、それは現在にいたるまでつづいているのである。彼らと比べると、ムジャヒドという穏健な反抗グループはあったが(1961年には片が付いた)ロヒンギャは国軍と戦争をしようとはしていなかった。

 アウンサン将軍が初代大統領か首相になっていれば、おそらくロヒンギャにも国籍が与えられていただろう。しかし不運にも、やはり三十人の志士のひとりだった外国人嫌いのネーウィン将軍が1962年に軍事クーデターを起こして政権につき、そのまま26年間も独裁政治をつづけてしまったのである。

 少しだけ時間を戻すと、1952年に最初の国民登録カードが交付された。これは割り合い規定がゆるやかで、二世代前からこの国に家族が住んでいるか、独立より十年前から八年以上この国に住んでいれば、民族が何であろうと、カードを持つ条件が満たされた。

 しかし1982年の新市民権法発布のあと、カード上に135の民族名が明記されることになった。135の民族集団リストに含まれていないロヒンギャには市民権(国籍)が与えられなかった。それどころか1989年になると、移民局の官吏がロヒンギャに、1970年代半ばに交付された外国人登録カードを返却するよう要求してきたのである。ロヒンギャは新しい市民権カードの交付を待っているところだったのに、新しいカードが発行されるどころか、再登録もできなくなったのである。



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