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 侵略したビルマ族の最初の王はケタテイン(Kethathein)だった。最後のムラウー王まで歴代の王は全員ビルマ族の名を有している。ケタテイン以降のすべてのアラカン王はもはやサンドラの称号を持っていない。それゆえアラカンのすべての碑文や文学はビルマ語で書かれているのだ。ビルマ族の王たちは初期のサンドラ王の系統と血縁関係にあるとは言い難い。二つのはっきりとしたことがある。初期の王たちはサンドラの家系であり、インド人である。そして11世紀以降の王たちはみなビルマ族である。

 ウェータリーには仏教やヒンドゥー教のさまざまな部派があった。しかしビルマ人が統治するようになってから、ヒナヤーナ(小乗仏教)すなわちテーラワーダ(上座部)仏教が圧倒的に強くなった。イスラム教も8世紀からそこに根を張るようになった。イスラム教はサイクロンで難破したアラブ船を通じてアラカンに広がったとされる。(ウー・ンガ・メー Rakhine razawin) 

 ラカイン年代記は最初のビルマ族王ケタテインを、無理やりサンドラ王スラタイン・サンドラと関係づけられる敗北したサク(テク)王ンガミン・ンガドンの従兄弟にしようとする。サイクロンによってスラタイン・サンドラが滅したあと、女王(彼の妻)サンダ・デーヴィは幼い息子をサイン・ダインの丘のサク部族に養子に出した。この息子がのちにサク王ンガミン・ンガドンになったとされる――まったくもって非論理的ではあるが。

 どうしたらこんなことが起こりうるだろうか。アーリア系の子供が教育を受けていない部族社会のサク族の家族に手渡されるなどありえない。王は死んだが、女王や親戚はまだ生きていた。どういった理由があれば3歳の子供をサク部族に渡すだろうか。これはラカイン年代記の歪曲である。おそらく王権を何世紀にもわたって持続的にアラカンを統治したサンドラ家と結び付けたかったのだろう。

 もう一つのポイントは、侵略したビルマ族が敗北したサク王の従兄弟を支配者に選ぶという不合理なことである。ンガミン・ンガドン自身はインド人のサンドラではありえない。もしサク王ンガミン・ンガドンと勝者ケタテインがふたりともラカイン年代記が主張するようにサンドラ家出身なら、なぜウェータリーの最後のサンドラ王は彼らと戦わねばならなかったのだろうか。ンガミン・ンガドンも勝者ケタテインもサンドラ家出身ではなかった。もし出身であるなら、サンドラ王朝はアラカンでつづいていたことになる。しかしサンドラ家の王統は途絶えていたのである。ケタテインのあとの歴代の国王の名も、言語も文学も、ビルマ語だった。

 サンドラの時代が終わった明確な証拠がある。新しいビルマ族の時代がはじまった。民族的な近さからパガンの支配者アノーヤター(Anaw Rahta)、チャンシッタ(Kyan Sit Tha)、アロンセス(Along Sesu)らはアラカンに出征したものの、完全な支配権を確立するところまではいかなかった。彼らはアラカンをいわば属国にとどめたのである。

 ビルマの王たちは退却するとき、戦争の捕虜としていつもインド人だけを連れ帰った。11世紀後半、チャンシッタ王はラムリーから3000人の捕虜を連行した。そして彼らをミンチャン(
Myint Kyan)とミッティラ(Miktilla)に定住させた。沖合の島ラムリーにさえこれだけのインド人がいるのなら、アラカン本土のインド人の人口は途方もないものだったのではなかろうか。

 このとき以来、インド人と支配者のビルマ人という主流の二つの住人の間に不和が生じるようになった。一方で混乱した時期にイスラム教がアラカンに浸透した。ラカイン人歴史家ウー・ンガ・メーの『ラカイン・ラザウィン』や西欧の歴史家たちはウェータリー王マハタイン・サンドラの788年以来、アラカンにアラブ人ムスリムが定住するようになったことに光を当てている。サイクロンで難破したアラブ人たちが王たちのはからいでアラカンに定住した。彼らによってイスラム教が広まり、ネイティブのインド人がイスラム教に改宗した。転向者の大半がビルマ族(ラカイン人)支配の時期に改宗したのである。

 12世紀から13世紀頃、バドゥル・ワリア(
Badr Walia)のようなムスリム聖人の布教活動もあって、ムスリム人口は徐々に増えていった。彼の住まいはアラカンの海岸に沿って見いだされる。彼は海の聖人として知られ、船乗りから信仰されている。バドゥル・モーカン、すなわちバドゥル・ワリアの住まいがあり、近隣のシットウェ(アキャブ)の南端にモスクが建っている。しかし近年このモスクは仏教寺院にかわっている。ムスリムにとってここは文化的に安全な場所ではないのだ。[訳注:ワリアはおそらくワリ(Wali)と同一。「神の友」という意味で、聖者のこと] 

 北方でもイスラム教は浸透しつつあった。ベンガルは12世紀までにはイスラム教に転じていた。一部の首長や軍指導者はナフ川の向こうからアラカンの支配権を確立した。ムスリム伝説に言う、ガウンラウンギー(Gaunlaunggie マユ谷とプルマ谷)のアミール・ハムザは長い間アラカンを支配し、アラカン内部の支配者たちと戦ってきたと。もうひとつのムスリム支配のケースは、ハニファとカヤプリーの支配だった。ある夫婦がミンガラル・ジ山脈に支配権を確立する。ミンガラル・ジ山脈の二つの峰は今もハニファ・トンキ、カヤプリー・トンキと呼ばれている。[訳注:『アミール・ハムザの冒険(ハムザナマ)』はペルシア起源の長大な叙事詩。近年まで(たぶん現在も)インドなどで叙事詩人が語り伝えてきた。ウルドゥー語版、およびその英訳は書物として存在する。このアミール・ハムザはそのアラカン版だろう] 

 これらのエピソードの記録は本という形にまとめられ、最近までアラカンでムスリムによってグループごとに唱和されてきた。タン・トゥン博士が『ムラウー・ラカイン』という記事の中で描く北アラカンのムスリム王のできごとかもしれない。このようにアラカンでムスリムは大多数派になった。それゆえラカイン年代記は、13世紀のアヌ・ルン・ミンの時代に、さまざまな厳しい仕事のために王が42000人のカラー(
Kalaas  ムスリム)を雇ったことに言及している。(ラカイン・サヤドーの「Dannya Waddy Arey Daw Pon」参照) 

 これは年代記作者が誇張しているのではないかとあなたは言うかもしれない。だが疑ったら、ほかの内容や地元の作家のほかの年代記まであやしいということになってしまう。『ダンニャ・ワディ・アレイドー・ポン』はもうひとつの例を挙げている。戦争捕虜人カラー(
kalaa ラカイン語でムスリムの意味)の王子が治療を受けた。治ったとき、彼はアキャブ(シットウェ)の総督に指名された。これはクヌンゴ博士が言及している15世紀のフセイン・シャーによる北アラカン占領のことだろう。

 
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