(3)

 上述のように、ラカイン人とビルマ族は文化的にも民族的にも縁戚関係にある。彼らは二つの体で一つの魂であるかのように感じさせる。政治的にうまくいかないときは、ラカイン人はビルマ族に頼るのが常だった。ひとたび政治的に不安定になり、ライバル同士が争い、混乱状態になると、ビルマ族に助けを求めたのだ。ビルマの王は軍を使ってアラカンを脅し、王位に自分たちが選んだ者をつかせた。1785年のアヴァの王ボードー・パヤーによるアラカン占領はこうした文脈から行われたことだった。

 15世紀の王ナラメイッラが冷徹に支配をはじめ、野蛮な方法で1404年、王子や高官たちがアヴァ(ミャンマー)の王ミン・カウンの助けを求めた。ミン・カウンはアラカンを侵略し、ナラメイッラはムスリム王のベンガルの都ガウルへ逃げた。彼の支持者たちはアラカンを奪うようモン国の王ラザディリを招いた。ハンタワディ(ビルマ下部)のモン人とアヴァ(ビルマ上部)のビルマ族は当時ライバル関係にあったのだ。こうしてモンのラザディリとアヴァのミン・カウンはアラカンを治めるために12年間何度も戦うことになった。

 結局当時のアラカンの首都ラウンチェ(
Laung Kyet)はミン・カウンの手中にあった。戦争によってアラカンは荒廃してしまった。人々は言葉にならないほど惨めな気持ちを味わった。流浪の王ナラメイッラはおよそ10年間、おそらく12年間、ベンガル王の軍に仕えた。彼はベンガルのパタン王にひいきされ、信頼を勝ち得た。王は彼がふたたび王位に就けるよう尽力した。おそらく彼は見返りを約束してベンガル王の援護の確約をもらったのだろう。二つの戦いを経て、ナラメイッラは最終的にラウンチェの王位に就くことができた。

「ベンガルの最初の随行隊の隊長であるワリ・ハーンは信頼を裏切った。彼の部下は占領していた勢力を駆逐し、ナラメイッラを王位に就かせるかわりに自らラウンチェの王になったのである。ベンガル王により送られた第二随行隊の隊長サンディ・ハーンは、裏切りの情報を得るとすぐに、ワリ・ハーンに対して行動を起こした。ナラメイッラは王位に復することができた」(ウー・ラ・トゥン・プル『ムラウー王ナラメイクラ』ラカイン・タサウン年次雑誌1998) 

 エー・チャン博士やウー・キン・ムアン・ソーら過激民族主義者はこのエピソードを係争問題として歴史的に重要なものとみなしている。

 このとき以来、アラカンの政治的、経済的、社会的、文化的構造は大幅に変化した。宮廷のムスリム式エチケットが導入された。ベンガルの随行団の両グループは王のために永久に留め置かれることになった。ムスリムはアラカン(ムラウー)の特権階級となった。ムスリム文化が花開いた。ベンガルの公式言語であるペルシア語がアラカンの公式言語になった。一部の硬貨は表にアラカン王のムスリム名が記され、裏にはムスリムのカリマ(信仰告白の韻文)が書かれた。ペルシア語を解さない地元のムスリムも彼らの言語をペルシアの文字で書き始めた。ペルシア語のカリグラフィーはムスリム芸術を発展させた。ムスリムの詩や文学も刺激を受けた。歴代のアラカン王はムスリムの名をかならずつけた。それで一部の西欧の作家はアラカンをムスリム国と考えたのである。

 上記の15世紀の世界政治地図を見ると、アラカンはムスリム国のカテゴリーに入れられている。アラカンの外国との書簡のやりとりは、18世紀までペルシア語が用いられていた。こうした事実を発見したのはJ・ライダーだった。何百年かの間、アラカンがムスリムの国であるベンガルの保護国であったことは、歴史家が認めていることである。ところが一部のラカインの書き手は、ベンガルの政治的影響がなかったゆえ、ナラメイッラの後継者ミン・ハリ・アリ・ハーンがラムーを占拠し、そして彼の後継者バ・ソー・プル・カリマ・シャーがチッタゴンを占領できたことに光を当て、上記の事実を否定しようとしている。

 ナラメイッラ以前からチッタゴンはアラカンの支配下にあったのが事実である。チッタゴンがなくてもベンガルの版図は大きかった。アラカンの内戦の間に、中央政府がない状態であったため、アラカンはチッタゴンを制御することができなくなったのである。おそらくチッタゴンは、地元の首長か、北東のトリプラ王の支配下になったのだろう。ナラメイッラの後継者がチッタゴンをふたたび占拠しても――それが本当に起こったのなら――ベンガル王との関係にひびが入らなかったのはそういう理由からだった。ベンガル王はむしろナラメイッラがアラカン王の座に戻るよう援護しているのである。ナラメイッラの避難とベンガル・ムスリム王の援軍についてはっきりとさせるため、地元の歴史家の言葉を見てみよう。

 1406年、アヴァ王国がアラカンに侵攻したとき、ナラメイッラ王は西方のベンガルの王都ガウルへ逃げた。彼はそこで長年暮らし、洗練された東イスラム世界文化を吸収し、ようやく故郷に戻り、王座に復位した。1430年、三十年近くの亡命生活を経て、ナラメイッラは手ごわい部隊の長として戻ってきた。

 アフガン人の勇者から成るこの部隊は地元の反対勢力(ビルマ族の占拠勢力)を迅速に駆逐していた。これはこの国の新しい黄金時代――力と繁栄の時代――の幕開けだった。ペルシアとインドの伝統もないまぜになった驚くべき仏教とイスラム教のハイブリッドの宮廷の誕生だった。彼は古い都を捨て、新しい都、ムラウー(ミャウー)を建てた。1433年、派手な儀式とともに遷都はなされた。王は翌年崩御した。(タン・ミン・ウー『失われた足跡の川』)

 16世紀はじめのムラウー王朝の時期、第9代国王ザラタ・ミン・ソー・モンはウ・カディル、ハヌ・メアー、ムサ率いるインドから来たムスリム布教団にイスラム教の宣教を許可した。彼らはさまざまな場所に多くのモスクを建て、さらにインドから新たな宣教師を招いた。この布教団は何十年も活動をつづけた。成果は奇跡といってもいいほど上がった。村という村のたくさんの人がイスラムに転向した。

 改宗はかなりの規模で起こったので、第11代ムラウー国王ミン・バジ・ザバウ・シャー(
15311552)のとき、一部の仏教徒の年長者は警告を発したあと、国に不平を申し立てた。国王はルットー(Luttaw 朝廷)でこの問題について論じ、宣教活動を停止させた。結果的に、アラカンには数十万人ものムスリムが生まれた。転向者はおもにインド人とチベット・ビルマ語族だった。イスラム文化の強い影響力によって、これら転向者はみな同化し、ロヒンギャになったと考えられる。

 これを裏付けるように、ビルマ人歴史家ウー・チーは彼の著書『ビルマの歴史精髄』のなかで「これら敬虔なムスリムたちの卓越した道徳によって、たくさんの人々がイスラムのほうへ惹きつけられることになった」と述べている。

 ほかのカテゴリーに属するムスリムもいる。ベンガルが1572年にパタン王の手からデリーのアクバル皇帝に渡ったとき、何千人ものパタン人(パシュトゥーン人)がアラカンに逃げ込んだ。アラカン国王は彼らを保護し、高い地位に雇い、国王の近くに置いた。アラカン国王から彼らは大いに目をかけられた。17世紀はじめにはまたナラパディ国王が3万人の染め物職人や機織り人をチッタゴンから連れてきて、アラカン渓谷に定住させ、織物産業と輸出業に力を入れた。大臣の反対にも屈することなく、国王はそれらをやり遂げた。

 13世紀のラカイン王タイン・チッ(Taing Chit)、アヌ・ルン・ミン(Anu Lun Min)、そして16世紀の王ミン・バジ・ザバウク・シャー(Min Bagyi別名Zabauk Shah)、17世紀の王ティリ・トゥダンマ・スリム・シャー(Thiri Thudamma別名Slim Sha)はアラカンへのそれぞれの軍事遠征の際、何千人もの捕虜を定住させるため東ベンガルから運んでいる。

 

⇒ つぎ