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皮肉なことに高度教育を受けた一部のラカイン人は、わずかな奴隷の子孫の共同体やナラメイッラのベンガル人随行員を除くと、ムラウー王朝期とそれ以前はアラカンにムスリムの定住者はいなかったと言おうとしている。事実は、英植民地期以前にすでにアラカンの人口の多数派はムスリムであり、彼らはムスリムに転向したネイティブだった。ほかのムスリムはラカイン王によって国に定住することを許された(ベンガルからの)追放者だった。
その頃アラカン王は彼らの奉仕を必要としていたのであり、王国の人口を増やすのは国の政策だったのである。ムスリムの影響は政治的、軍事的、経済的分野だけでなく、宗教的、文化的分野も受けていた。英植民地期の考古学監察官のE・フォーシャマーはつぎのように書いている。「アキャブのバドゥル・モーカン・モスクは多くの仏教寺院のプロトタイプだった」。またパメラ博士はつぎのように述べる。「サンドウェのプラ・ラ・ゼディ寺院と有名なムラウーのシッ・タウン・パヤー寺院はベンガルのバラスナ・モスクとチュタスナ・モスクをモデルにして建てられた」。バラスナ・モスクとチュタスナ・モスクは1475年、1526年に建てられ、シッ・タウン寺院はミン・バル・ジ王(1532―1554)によって建てられている。パメラ博士が、両モスクはシッ・タウン・パヤー寺院のプロトタイプだと述べるとき、年代は矛盾しない。
こうした記録は真正なものである。これについて我々をないがしろにはできない。ムラウーのムスリムはよく根付いた共同体なのである。彼らの影響もまたきわめて大きかった。18世紀はじめ、アラカンの政治はすべてが彼らの手の中にあり、また操られていた。彼らは自分たちの王を立てることができたし、王を選ぶこともできた。しかしながらわれわれの同国人の一部は、死に馬に鞭うつように反ロヒンギャ、反ムスリム・プロパガンダを蒸し返し、英植民地期以前にアラカンにムスリムが存在したことを否定するのである。一部の人々はこのアラカンのムスリムが最近バングラデシュから来たばかりだと主張している。
ここで特記すべきことは、ムスリムとロヒンギャは同義語であることだ。1971年、ミャンマーには機能する政府があった。そしてアラカンの北の国境に反乱グループはなかった。この状況でどうやってベンガル人が大量に入ってくるだろうか。彼らがどうやって合法的な居住証明書あるいはNRCまたはTRCを得られるだろうか。ミャンマー政府がこれら不法滞在ベンガル人に市民権を発行するだろうか。彼らはどこから家や土地、農地を得たのだろうか。これら新しい定住地はどこにあるというのか。イミグレーション・オフィスもナサカ(国境イミグレーション検査所)もあるのだろうか。ばかげた追及だ。バングラデシュの一人当たりの所得はミャンマーより高いというのに。アラカンの人のみがそこでよりよい生活を営めるというのに。
われわれと反対側に立つ人の多くは、ロヒンギャはバングラデシュ人だと主張する。実際、人口過密な住人の中に何百万人ものロヒンギャを迎えることを強いられ、不平をたらたらこぼしているのはバングラデシュ人なのである。1662年以来、アラカンのロヒンギャはときに大量殺戮されそうになると、何千人という単位でベンガルに逃げ込んでいた。こうした難民はチッタゴン地区に共同体を作っていった。英植民地期の人口調査では、彼らはロワイン(Rowaing)に分類された。ロワン(Rowang)すなわちアラカンから来た人々という意味である。
ここで私はG・E・ハーヴィー教授の生き生きとした言葉を引用して論を締めくくりたい。
10世紀以降アラカンは仏教国になったが、モハンメダン教(イスラム教)は広がっていった。13世紀までに、アッサムからアラカン、マラヤまで海岸沿いにバドゥル・マカン・モスクを含む拠点があちこちに建てられた。アラカンではビルマ以上に女性が隔離されているが、これはイスラム教の影響である。
中身がどういうものであろうと、ムスリムとラカイン人の民族間の調和はムラウー王朝の第二期までつづいた。しかし調和は結局、歴史的なできごとによって辛辣なものに変わった。ムガル皇子シャー・シュジャとラカイン国王サンダ・トゥダンマが対立関係に陥ったのである。
デリーの皇帝の座をめぐる兄弟アウレンゼブとの戦いに敗れたベンガル(チッタゴンはラカイン王の支配下にあったので、ベンガルには含まれない)の総督、シャー・シュジャは、1660年、アラカン王サンダ・トゥダンマに亡命者として暖かく迎えられた。ラカインの武装部隊はダッカからチッタゴンまで彼をエスコートした。チッタゴンからムラウーまで陸上のルートで進んだ。彼が歩んだルートはバングラデシュでいまもシュジャ・ルートと呼ばれている。
彼は何日間かマウンドーに滞在している。今日までこのマウンドーの村はシュジャ村と呼ばれている。それからムラウーまで進むと、何百人ものボディガードとともに暖かく迎えられた。この亡命皇子と随行の者たちは安穏に、心地よく滞在できるよう必要なものはすべてそろえられた。そして引退後に暮らすメッカへの最後の旅に向かう船の準備が約束された。しかし亡命皇子とアラカン王との間に問題が発生した。
この危機のラカイン・バージョンはこうである。「アラカンの王座を奪うため自分で仕組んだクーデターの戦いでシュジャは殺された」。だれがこの危機のきっかけを作ったか、さまざまな仮説が考えられる。シュジャから利益を得る者がいないため、このエピソードを扱うラカインの文学ではつねに一方の見方に寄っている。この危機に関連する要因は数えきれないほどある。王に約束されてから一年たつのに、なぜシュジャはメッカ行きの船を用意してもらえなかったのか。歴史家が推定するに六頭のラクダに宝石が満載されたはずだが、それらはどこへ行ったのか。なぜアラカン王は強制的にシュジャの娘と結婚したのか。若い女性たちを熱愛した王をなだめるため通りの子供たちが歌った、シュジャの娘たちの美しさをたたえる詩は、王国の民衆が口ずさんだのではないか。
ラカインの上級政治家で職業軍人のウー・ラ・トゥン・プルはつぎのように述べる。亡命皇子と彼の家族は賞賛されていた。とくに若い皇女の美しさは都のどこにいても祝杯が挙げられるほどだった。若い国王サンダ・トゥダンマに帰せられる人気ある詩――彼らは愛の詩のやりとりをしていた――はつぎのようなものである。
月のごとく輝いて、あなたの額は美の光線を反射する。
島全体が体の照り輝きに覆われる。
目はダイアモンドとサファイアのようにきらめいている。
いとしい魅惑の体のようにきらめいている。
月の輝きに引き込まれたかのよう。いとしい唯一無比の存在よ。
六つの障害にも束縛されない。
美は天使の場所、天国と同様に比較できないほどすばらしい。
とても魅力的で、一目見ると美しすぎて息ができない。
それが見えた途端、体と魂は出発するだろう。
それは天使じゃないが、人間以上。
おお、過去の慈善活動によってあなたは美しくなるだろう。
いままで見たなかでもっとも美しい存在となるだろう。
想像してみてほしい。シュジャはアラカンの王座を得ようとした。それから彼はまずベンガルから連れてきた自分の警護兵らとともにクーデターを企てる。警護兵らはいまや反乱軍であり、犯罪者である。これら国王に雇われた警護兵がなぜ反乱軍にならなければならないのだろうか。この警護兵だけでなく、何百人ものシュジャの警護兵が離れた村に再定住させられている。彼らは土地と農業の用具をもらっているのだ。また地元の女性との結婚をセッティングされている。これが犯罪者に対する扱いだろうか。もし国王が隠された動機を持っているのでなければ、ムラウーでシュジャ家の虐殺が始まる前に夜のうちに町を去るよう「ダッチ・ファクター」に命ずることはなかった。
ダッチ・ダグ・レジスターは、シュジャの家族が殺される前日、ムラウーのすべてのダッチ・ファクター(工場の人々)に24時間以内に町を去るよう命じた。もうひとりの避難地を求めていたトリプラから来た皇子も町から出るよう命じられた。
こうしたことからひとつの結論に達する。つまり上記の危機のラカイン・バージョンは真実ではないということだ。アラカン国王の醜い動機を隠すためにバイアスがかかっているのである。事実は、アラカン王がシュジャの娘との結婚を切に願ったということである。彼はまた貪欲で、シュジャの宝物を欲しがった。このような宝物はアラカンの宮廷にはけっしてなかった。自分の貪婪と欲望を満たすために、彼は反乱の噂を広め、つづいて皇子の家族を襲い、流浪の皇子と妻を残虐に殺したのである。そして娘のひとりは強制的に結婚させられ、家族の残りは牢獄に入れられた。シュジャの宝物は没収された。
一部の人が言うには、シュジャの牢獄中の家族は王母(サンドラ・トゥダンマの母)の介入があって解放されたという。彼女は庇護を求めてきた皇室のメンバーを殺すのは不適切だと主張したのである。『ビルマの過去現在』のなかでアルバート・フィッチス大佐は、シャー・シュジャの長男と結婚したがっていたと書いている。ムガル皇子はおそらくふたりの結婚に賛成ではなかった。
一年後の1662年、北アラカンに残っていたシュジャの随行メンバーは、シュジャの家族を救うために武装して攻撃を仕掛けた。しかしこの反乱軍は国王の軍隊に粉砕されてしまった。この反乱において、シュジャ側のメンバーと地元のムスリムは全員殺されてしまった。ダッチ・ダグ・レジスターが記録するあごひげを生やした者たちのだれもがラカイン王の軍隊によって殺されたのである。国王のムスリムの大臣のひとりシャー・アラオル(Shah Alaol)は反乱に加担した罪で牢獄に入れられた。アラオルは七年間獄中に過ごしたという。モシェ・イェガルはこの件に関し、アーサー・フェア卿の言葉を引用する。
アーサー・フェア卿の考えでは、アラカン年代記の作者は国王の醜いふるまいを隠し、約束した船を供給しなかったことや国王がシャー・シュジャの娘と結婚したがったこと、皇子の宝物を横取りしたことに言及せず、宮廷を占拠しようした皇子の失敗した反乱のみを強調している。フェア卿は引用元を明示せず、彼の考えであるが、おおかた受け入れることができる。
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