神話なし、事実のみの<ロヒンギャ史>  

ウー・チョー・ミン

 

英国植民地時代 

 これまで見てきたように、ムラウー王朝後期以来、ムスリムとラカイン人の関係は悪化の一途をたどっていた。これといった問題がなかったにもかかわらず、ビルマ人占領期は大きな改善が見られなかった。ラカイン人は英国人を招き入れ、彼らとともに戦った。ほとんどのロヒンギャは中立的で、第一次英国ビルマ戦争の時代は戦いに参加しなかった。しかし一部は積極的にビルマ軍に参加した。「タド・ミンジ・マハ・バンドゥーラ(Thad Mingyi Maha Bandoola)」は二千人の戦闘員、軍馬、象を含む五つの師団とともに「セイン・ピュ・チュン(Sein Pyu Kyun)」からアラカンへ行進した。アラカンで彼は新たに兵を徴集した。(U Lay Maungの『Myanmar Naing Ngan Rey Thamaing Vol. 1』参照)

 バンドゥーラはアラカンのムスリムが協力的で、支えてくれることがわかった。こうして彼はミンビャの「カズィ・アブドゥル・カリム(
Kazi Abdul Karim)」率いるムスリム軍を得た。しかしアブドゥル・カリムは戦闘中に生きたまま捕らえられ、「カルカッタ陸軍刑務所」に収監された。バンドゥーラはのちに本部をブーティダウンに移し、そこで新しい戦闘員を募集した。(ロバートソン大尉『第一次英国ビルマ戦争記録』参照)

 この筆者の祖父の大祖父が徴集された兵士のひとりだった。英国は戦争に勝った。アラカンは英国の支配下に置かれた。英国の支配の間、ラカインは英国から特別のひいきを受けていた。しかしムスリムにとっても目立った問題はなかった。ムスリム審理システム(カズィ・システム)が英国人によって維持された。

 公式のカズィ(判事)が指名された。アラカンには今日までつづくいくつかのカズィ家族がある。英占領期の後半、独立運動が復活した。ラカイン人はロヒンギャと比べ大半が教育を受けていて、民族的にはビルマ人と同族だった。それで彼らはビルマ人の主流の運動と密接に協力することができた。

 ラカインの僧ウー・オタンマは独立運動のリーダーとなった。パキスタンとおおなじパターンで、ウ・トゥン・アウン・チョー(
U Htun Aung Kyaw)やウ・ラ・トゥン・プル(U Hla Htun Pru)、僧ウー・ピンニャ・ティハ(U Pyinnya Thiha)、僧ウー・セインダ(U Seinda)その他に率いられ、アラカン国独立運動が起こった。(Myanmar Naingan Rey Thamine 参照)

 このグループは、1989年、ビルマ正史を編集する際に、
SLORC政府によって特別な組織であったと認定されている。

 ラカインで行動をともにした、あるいは参加したムスリムの年長者たち、リーダーたち、学生たちが独立運動を率いた。ムスリムは彼ら単独で独立運動を図ることはなかった。このときはじめて彼らはラカインの一部であり、仲間であると考えた。彼らは自分たちをラカイン人、あるいはアラカン・ムスリムと呼んだ。「スルタン・マフムード」を宣揚する(のちの最後のウー・ヌ内閣の健康大臣)ウー・ポエ・カインやウ・ヤシンは「全アラカン国民連合組織」のメンバーだった。チャウトーのザイヌッディン氏は積極的に国民学校の教育の必要性を主張し、実際アキャブ国民高校の校長になった。サンドウェーのウー・バ・セイン、チャウピューのウー・テイン・マウン、そしてミェボンのもうひとりのウー・テイン・マウン、そしてドー・エー・ニュン・ズラーは独立運動のなかでもよく知られたリーダーたちである。チャウピューのウー・テイン・マウンはAFPFLPha-Sa-Pa-La?)地区の書記だった。

 1935年の英占領時の平時の議会において、アキャブの「ゴニ・マラカン」は地元のMLCmember of the legislative council)だった。アキャブのウー・ポエ・カイン、ブティダウンのウ・アブドゥル・ガッファルは憲法起草委員会のメンバーだった。(ウーチョー・ウィン参照) こうしたことが可能であったのは、我々がロヒンギャと呼ぶイスラム教徒がビルマ国民だったからである。より重要な点は、アラカンのイスラム教徒の民族の問題が、1947年1月7日、ボージョー・アウンサン(アウンサン将軍)とパキスタンのアリー・ジンナー(パキスタンの初代総督)とのカラチの会合で話し合われ、決着したことである。

 当時北アラカンの国際的地位はホットな政治問題だった。東パキスタンのリーダーたちは来たるパキスタン国家に北アラカンを含めるべきだと要求していた。このホットな問題によって、ボージョー・アウンサンは何か月か前、ジンナー氏のこの件に関するスタンスについて探りを入れるため、彼の側近であるラシド氏を特使としてジンナー氏のもとに派遣した。(モシェ・イェガル 『ビルマのムスリム』
1967

 1947年1月7日の交渉でジンナー氏は東ベンガルのリーダーたちの主張に距離を置いて、問題の地域はビルマ内であり、ムスリムたちがビルマ国民であると認めることになった。(ウー・ポガレ『我々のボージョー』
2003

 結果的に独立後のビルマ政府はこの人々に十全な憲法の保障を与えた。彼らは市民権を享受した。彼らから国会議員、および政務次官が輩出されていて、ウー・ヌ政権のときはブーティダウン出身のスルタン・マフムード氏が健康大臣を務めた。参政権を享受すること、純粋なビルマの市民権を持つことは、土着のビルマ市民であることを表わしていた。ロヒンギャが土着であることを確認する公式文書や大臣、内閣のレベルの決定は数十も存在している。

 

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