神話なし、事実のみの<ロヒンギャ史>
ウー・チョー・ミン
英国植民地時代の人口調査
(1)
英国の初期の人口調査では、ロヒンギャはサイイド、シャイフ、ムガル、パタンなどと同様に一民族として認定されている。インドにおける英国の人口調査と同様である。
BCNのレポート「ビルマの政策ブリーフィング」に言う。「植民地時代の民族の認識で言えば、アジアやアフリカその他の植民地の植民地後は試練を受けてきた。ミャンマーではなおもそれがつづいている。そのような過去から引き継がれたものは、アイデンティティ、民族政策、市民権において問題となってくる。民族のカテゴリーのレッテルと人口は、しかしながら、調査によって異なっていた。人のタイプの分け方の方法論と似たようなものだった。19世紀の社会進化論の影響を強く受けて、植民地の官公吏は民族を科学的、客観的に証明できるカテゴリーとみなした。
(……)人口調査やその他のレポートによって、移民、征服、民族の吸収などの多くの理論が生まれた。1931年までに、言語と同様の民族の分類法が採用された。[ロヒンギャの言語はインド語のグループに加えられた。ラカイン語は一種の間違いのように分類された] 1931年の人口調査の監督官で統計的報告書に付された文章を書いた著者のJ・J・ベニソンは、統計が不確かであることを認めている。彼はビルマにおいて、言語と民族区分が極端に困難であると記している。(……)全体的な調査報告についてベニソンは書いている。「言い訳としては、方法の欠如、間違った準備や繰り返しだ。統計の多くは信頼に足りない」。[BCN、Burma
Centrum Nederland、Burma policy briefing( 2014)]
人口調査をこまかく見ていけば、1953年の部分的な人口調査で、マウンドーやブーティダウンの人口が何十万人にも達することがわかる。マユ前線管理局の1961年のレポートによると、人口は約50万人である。
1953年と1954年の部分人口調査によれば、アラカンの村々の人口の56・75%が仏教徒であり、41・70%がムスリムである。(モシェ・イェガル 1972) 1973年の調査報告によると、ラカイン州の人口は1700506人である。宗教別で見ると、仏教徒68・7%、ムスリム29・2%。市民権で見ていくと、ミャンマー市民は99・7%。このように彼らはみなミャンマー市民として認識されている。
民族に関していえば、ベンガル人も、ロヒンギャも、ムスリムもない。1973年の調査の数字を見ると、インド人あるいはパキスタン人とされる非ラカイン人(ムスリム)は201044人となる。そして外国の民族の名の数字として271017人が挙げられている。ただしどの国かの記述はない。
私が思うに、今日のロヒンギャやムスリムは二つのカテゴリーに分けられるのではないか。これがロヒンギャのアイデンティティーを複雑にしているのではないか。実際、1973年およびその前後にはインド人もパキスタン人もなかった。ムスリムを表わす数字は事実ではなかった。それはつねに多く数えられていた。外国人の数は5316人だけだった。アラカンの何十万人ものムスリムが、どうしたら外国人でありえるだろうか。このとき以来、政府の政策によってロヒンギャのアイデンティティー及び国籍は奪われようとしていたのである。
1983年の調査報告で、図A3が示すように全体の人口の民族と性別のパーセンテージが出ている。それによるとラカイン人が67・8%、インド人2・4%、パキスタン人0%、バングラデシュ人24・3%。このカテゴリー分けは見当違いもはなはだしい。
1973年の調査では、バングラデシュ人はひとりもいなかった。ここで言うバングラデシュ人は思うに、アラカンのムスリムのことである。1973年の調査のインド人の大きな数字が消失している。この調査報告で市民権のカテゴリーがなくなっているが、それはこのとき以来、ロヒンギャの市民権が奪われはじめたということである。しかし宗教をごまかすことはできない。仏教徒は69・7%、ムスリムは28・5%となる。1973年の調査、1983年の調査ともロヒンギャは自分たちの名前を自己認識する。しかし調査報告は彼らのアイデンティティーを特定しない。1973年以来、政府は意図的にロヒンギャからアイデンティティーを奪ってきたのである。
調査報告のなかでつぎのように言う。「1983年の人口調査は、人口データを集めるため抽出技術を採用したはじめての国レベルの調査である。このようにこれは抽出を基本とした推量である。1983年の人口調査の20%の計数は、抽出エラーから出たものである。
1983年の調査で、ラカイン州の人口は2045559人となっている。そのうち仏教徒は1425095人、ムスリムはスンニー派583944人、シーア派574人である。ムスリムの数はあまりあてにならない。意図的に減らされているだろう。1961年の公式記録、あるいは報告によれば、マウンドー地区だけの人口で約50万人だった。(「マユの将来 1961」
マーティン・スミスが言うには、ミャンマーの人々は衣服を変えるより頻繁に新しい民族を主張するとのことである。
[原注;おなじ調査でも、図が異なるたびに、調査報告中のさまざまな図の数字が異なっている。]
2012年のラカイン州対立査問委員会の報告のなかで、アラカンの総人口は3338669人、そのうち仏教徒は67・4%、ムスリム28・4%としている。人数では仏教徒2333670人、ムスリム968726人となる。それはラカイン州出入国管理データによる。それがどれだけ信頼できるかはわからない。ムスリムの人口はつねに低く見積もられているのだ。アラカンにおけるムスリムの人口の割合は英国が植民地にする前とほとんど変わっていない。それゆえ彼らが不法移民とする説は現実ではない。それは思い違いであり、誹謗中傷である。
モシェ・イェガルは言った。
人口調査の数字はまったく正確ではない。というのも1921年の人口調査でアラカンの多くのムスリムはインド人としてカウントされたのである。1931年の人口調査でも、多くのアラカン人ムスリムが母語はベンガル語であると主張し、インド人として分類された。(モシェ・イェガル 1972)
1912年のアキャブ・ガゼットの人口調査図で、アキャブ地区の人口529943人のうち、30%以上がベンガル語を話すムスリムだった。それ以外のムスリムもいた。アキャブ地区のムスリムは多数派で、181509人がベンガル語を話すムスリムで、178647人がその他のムスリムに分類される人々だった。1世紀が過ぎて、ムスリムの人口が増えることはなく、逆に減少した。今日、いわゆるベンガル人少数民族になってしまった。もし違法滞在のバングラデシュ人が定期的にやってくるのなら、我々が今日ロヒンギャと呼ぶいわゆるベンガル人(政府はそう呼ぶ)の人口は、疑いなく減少しているはずである。
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