(2)
カマンと呼ばれる民族がいる。そのほとんどがムスリムである。ラカインの歴史家は言う、彼らは亡命王子シャー・シュジャの随行隊から王室の警護として雇われた新兵であると。カマンは三十年以上もの間、アラカンの政治を牛耳ろうとした。彼らの意思で国王の座につけたり、国王の座から下ろしたりした。
のちの1709年、屈強な国王サンダ・ウィズィヤが権力を握ると、国は安定した。一方、前国王の警護のカマンたちはラムリーやアキャブ(シットウェ)の沖合の島に流された。国王はほかのムスリムも迫害した。
多くのムスリムがベンガルへ逃れ、ほかの3700人はアヴァへ逃れたと言われる。アヴァでは、国王サナイが彼らを12のグループに分け、それぞれ別の地方に送ったという。(Thaathana Raungwa Tun Zepho 1997)タン・トゥン博士は彼らをアラカンのインド人と呼んでいる。そして彼らはラカイン語でなく、カマン語を話すという。彼らは勇敢で、軍事的なスキルを持っていた、つまり格闘技に長けていた。彼らの子孫はミャンマー国王の常備軍に奉仕し、第一次英ビルマ戦争ではミャンマー軍とともに戦った。このムスリム軍はバジドー王から報奨としてふたつのモスクを授与された。それらは今も公式登録名の「ラカイン・モスク」として知られる。(Encyclopedia Britannica 2003 参照)
シュウェブ地区のミェドゥから来たカマンの部隊は、1785年、アラカンから戻る際、サンドウェーでボードー・パヤー王のビルマ軍の軍隊に取り残されてしまった。この部隊と彼らの子孫はのちに地元でミェドゥ・ムスリムとして知られるようになる。彼らもまた1921年の人口調査の際はインド人として記載されている。(モシェ・イェガル 1972) おそらくミェドゥ・ムスリムはインド語(ヒンディー語)の方言を話したので、インド人に分類されたのだろう。
1872年と1882年の人口調査で、ムスリムの人口増加は見られない。しかしのちに10年ごとに調査をおこなうようになると、増加が見られる。というのもチッタゴンからの季節労働者が調査でカウントされるようになったからである。英国の調査では、言葉によって民族が決定されていた。ロヒンギャの言語はある程度チッタゴンの言語と似ていたので、彼らはチッタゴン人(Chittagonian)、あるいはインド人に分類された。ラカイン語話す人々のみがアラカン・ムスリムとして記録された。
反対意見があり、のちに彼らはネイティブのインド人と認定された。[つまりアラカンのムハンマダン+ネイティブのインド人=ロヒンギャ]
独立後の時期において、ラカインの全人口の半分はロヒンギャだった。言語ゆえ、ロヒンギャはインド人でもバングラデシュ人でもなかった。独立後の時期まで、北アラカンのほぼすべての民族がバイリンガルだった。北アラカンのラカイン人は、ロヒンギャと話をするときロヒンギャ語を使った。そのため、ロヒンギャはラカイン語を学ぶ必要がなかった。わたしたちは歴史の背景を見なければならない。ムラウーの宮廷では、ベンガル語が――ロヒンギャ方言はそこから派生した――広く用いられていた。それはアラカンにおけるリンガ・フランカ(共通語)だった。(J・ライダー『ムラウー宮廷の詩人と作家』2011参照)
1826年の英国の人口調査報告によれば、英国が占領する前、ロヒンギャの人口はアラカンの総人口の三分の一だった。そして独立後の1973年と1983年のミャンマーの人口調査でも割合は変わらなかった。ムスリムの人口はやはり低めの数字だった。数字は信頼がおけなかった。
「ロヒンギャ駆逐政策」はこうした初期の人口調査にはじまっていたのだ。ムスリムの人口は実際、半分を超えていた。政府は、ラカインの人口の三分の一という調査の数字を示した。しかし現在の割合も上述の調査と変わっていない。不法移民はどこへ行ってしまったのだろうか。結局ロヒンギャを虐めて、迫害するための難癖だったのではないか。R・E・ロバート少佐の報告「アラカンの考察」(1777)のなかで、アラカンのムスリム(ロヒンギャ)の人口は、アラカンの全人口の4分の3を占めると述べている。
結局、英国の調査の数字は彼ら自身の報告に登録されただけのものであり、あてにならないということだ。(J・J・ベニソンの1931年人口調査報告)
1940年には、インド移民研究委員会のジェームズ・バクスターが、ラカインには6万人のムスリムがいると述べている。1921年の人口調査によれば、アラカンのムスリムの人口は24000人だった。あきらかに英国人は、アラカン生まれのムスリムとのちに季節労働のためにアラカンにやってきたインド人をごっちゃにしているのである。アラカンのムスリムの人口は縮小していた。つまり、この人口調査はまったくあてにならないということだ。
我々は英植民地時代の人口調査をもとにロヒンギャの歴史を考えることはできないのである。アラカンのムスリムはまた、民族的アイデンティティーとして捉えることもできない。ロヒンギャのアイデンティティーの記録があるのにアラカンのムスリムをロヒンギャとして規定しなかったのは、英国の人口調査を担当した官吏の胸三寸だったということである。歴史家はこのムスリムたちがロヒンギャだと主張しているというのだが。(フランシス・ハミルトン・ブキャナン 1798)