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 ラカイン人と距離を置こうとしたのはロヒンギャ自身ではない。ロヒンギャとの文化的な統合を拒絶したのはラカイン人である。ラカイン人にムスリムはいないと言われる。しかし、ラカイン人の文化と社会にロヒンギャの文化変容が見られるのである。かなり早くからラカイン人はロヒンギャの言葉を話すことができた。彼らの公式の言語はペルシア語とベンガル語だった。それらはまたロヒンギャの書き言葉でもあった。日常の習慣には両共同体に類似点がたくさんあった。独立前は、北部のアラカン人ほぼ全員がバイリンガルだった。社会的・政治的条件によってロヒンギャがラカイン語を話すよう求められるわけではなかった。しかしムスリムが少数派である南部では、文化的統合が見られ、彼らはビルマ語やラカイン方言を話したのである。

 英国人官吏のウィリアム・フォーリーはつぎのように述べる。

 

 彼らは衣服、言語、身体的特徴がアラカンのほかの人たちと同化していて、見分けるのが困難になっている。ムハンマダン(ムスリム)であることを恥ずかしがっているかのように、このクラスの個人は一般的に名前を二つ持っている。一つは生まれたときから持っている名前。もう一つはアラカンの現地の名前。彼らはこの名で知られるのを望んでいる。(フォーリー ラムリー島縦断ツアー・ジャーナル 1835

 

ロヒンギャのアイデンティティーは、歴史的過程のなかでの相互作用を通じてできあがったものである。それはアラカンの歴史の産物であり、バイアスのかかった、あるいは雇われ歴史家によって描かれた、偽造された新奇のアイデンティティーではない。ロヒンギャという言葉は政治的な見立てや野望によって作られたものではない。それは多くの歴史調査レポートに出てくるものだ。FH・ブキャナンの調査レポート以外にも、18世紀はじめ以来、ベンガルのレンナル地図やインド亜大陸の言語のジル・クライストの研究などがある。わたしたちが見つけたロヒンギャのアイデンティティーに関する歴史的記録は、以下のとおりである。

(1)古典的なジャーナル。1811年9月から12月。第4巻。ロンドン。AJ・ヴァトピーによって印刷。

(2)Linguanum totius orbis, Index, Alphabeticus, Quarun, Grammaticae, Iexica, Collectiones Vobulorum Reens Senur Berlin, 1815.

 訳注:ドイツ語で書かれた文の中にRukheng(アラカンのこと)のロヒンギャと思われるRooingあるいはRuingaの名が出てくる。

 

 ロヒンギャはチッタゴン人と文化的に、言語的に近いと、歴史家は言うことができる。しかし彼らが同一とは誰も言うことができない。さらには、ロヒンギャがベンガル人とは誰にも言えない。社会学者や人類学者はその違いをはっきりと言うことができるだろう。現代のインドの歴史家は、チッタゴン人もアラカン人も何世紀も前に難民としてやってきた移民系マゲディ人だと主張するだろう。そう、たしかに両地域の方言にマゲダ・パラクリトの影響がある。(訳注;マゲダはマガダ国のマガダと同じ。パラクリトはサンスクリット語に対する俗語のプラークリット語のこと) ラカイン語にはほんのわずかなマゲディ語の要素も見つかっていない。それゆえ一部のラカイン人のマゲダ(マガダ国)からやってきたという主張は、欺瞞だし、悪ふざけである。ラカイン人はビルマ人に見えるが、インド人には見えない。ロヒンギャはラカイン人と異なり、インド人と(つまりマゲディ人と)似た身体的特徴を持っている。

 もし早い時代にアラカン(ラカイン)にマゲダの人々がやってきていて、定着したとするなら、歴史家は彼らがロヒンギャと関係があり、ラカイン人ではないと言っただろう。すべての記録がラカイン人はビルマ族の支系とみなしているのである。(タン・トゥン博士2003参照)

 つまりロヒンギャをアラカンの歴史的な民族と認識することは、外国人にとって、疑惑の論点でもなければ、規制の問題でもない。ロヒンギャの公認を主張しつづけることは、外国人にとってモラルの強さ、あるいは正義の問題である。

 ロヒンギャはすでに彼らの言語がロヒンギャ語であるというISO(国際標準化機構)の認定を受け取っている。国際SIL(少数言語のための組織)は2007年7月18日に言語として認定している。はっきりと区別された言語としてのロヒンギャ語には、コードRHGが割り当てられている。先にロヒンギャ語はCIT(チッタゴン語)のもとに分類されたが、現在CITというコードはなくなっている。それは二つに分けられたのである。すなわちチッタゴン語にはCTG、ロヒンギャ語にはRHGが割り当てられた。(SIL.ORGのウェブサイト参照)

 

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