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英国植民地下の1921年と1931年の人口調査報告によれば、アラカンに来ていたインド人の大半は労働者で、シーズンが終わると戻ったという。アキャブ地区のビルマ・ガゼッティアのR・B・スマートは言う。
チッタゴンから来る人々は定住者ではない。彼らは季節労働者である。労働シーズンが終わると、彼らは家に変える。ごくわずかなはぐれ者だけが残るのだ。(ビルマ・ガゼッティア 1917)
水晶のように明確だ。つまり、人口調査に季節労働者が含まれるからといって、ロヒンギャを、彼らの祖先がいることを、彼らの国籍を否定する根拠にはならないのだ。リチャード・アドルフとヴァージニア・トムソンは、「東南アジアの少数民族問題」の中で、アラカンにいつも来ていたチッタゴン人と、ビルマに来たインド人移民との違いをきっぱりと描いた。ビルマに来るインド人は、多かれ少なかれ、永住するのに対し、アラカンに来るチッタゴン人は季節労働したあとは故郷に戻る。彼らの大半は男性労働者である。(アドルフとトムソン「東南アジアの少数民族問題」1955)
ラカイン人と同様、一部のロヒンギャもアラカンに再入域した。彼らはミャンマー(アヴァ王朝)に占領されている時期にチッタゴン地区に逃げていた人々である。つまり英植民地時代の初期に戻ってきた人々はチッタゴンからの移民ではなく、アラカンのネイティブである。
アラカン史のラカイン人バージョンの主導者であるジャック・P・ライダー博士は、「ロヒンギャ、名前。ムーブメント。アイデンティティーを求めて」の中に書いている。
18世紀後半、ミャンマー軍の弾圧のもとにあった数千人のラカイン人が逃げ出した。そのなかにはムスリムもいた。彼らはシャム(タイ)に遠征するボードー・パヤー国王軍のために備蓄米を提供するよう要求されたのである。彼らはチッタゴン地区の地元社会に簡単に溶け込むことができた。しかし彼らの多くがラカインに帰らない理由もなかった。不幸にも我々は詳細を知らないのであるが。
ミャンマーの歴史家も、ラカインの歴史家も、誰もロヒンギャがアラカンに戻ってきたことについて述べたことがない。全員が、すべてのムスリムはベンガルから来た不法就労者だと叫んでいる。
実際、1660年代、シュジャ皇子がアラカンに亡命したとき、そしてまたムラウー朝のスルターン・カディル・シャーがラカイン人によって王座から追放された1737年から1739年頃にロヒンギャの反乱が起きたとき、ロヒンギャのベンガルへの大量移住があった。(アラカン州委員会『アラカンの歴史』1984)
結局のところ、私はアラカンの完全な歴史を書いているわけではなく、ただアラカンの歴史におけるムスリムの(ロヒンギャの)役割について正確な見方をしようとしているのである。間違っても彼らをベンガル人違法移民とみなさないようにしないといけない。
アラカン人作家ネミ・サン・アウンによると、ムガル帝国の亡命皇子シャー・シュジャがサンダ・トゥダンマ(1655―85)に殺されたあと、アラカンは不安定になった。ムスリム(カラ)は政治、軍事、経済に影響を及ぼすようになった。彼らは支配的になったのである。スルターン・カディル・シャーは1737年に国王となり、最後の王マハ・タマダはカラの協力で玉座に就いた。(ラカイン・タハヤ・アティン・マガジン 2002)
英占領時の考古学局の主任エミル・フォークハーマーとパメラ・グトマン博士は二つの共同体の文化的混交に光を当てた。いくつかの政権で下院議員をつとめ、ネ・ウィン政権時の国家顧問だったベテラン政治家のウ・ラ・トゥン・プルはつぎのように書いている。
15世紀前半の最後のヴェーサリー王チャウ・レガの時代(ムラウーが建設される1430年より前)、ベンガルの随行隊の司令官ワリ・ハーンは、退位していたラカイン人の国王ナラメイッラを復位させるためにやってきていた。しかしワリ・ハーンは裏切り、ナラメイッラを獄中につないだ。そして彼自身がラウン・チャ王となった。(ウー・ラ・トゥン・プル 1998)
アラカンの歴史家が認識していたように、それは歴史的真実だった。しかし現代の国粋主義的な歴史家たち、エー・チャン博士、ウー・マウン・タル・ラ、ウー・キン・マウン・ソーはそれを否定している。
ウー・ラ・トゥン・プルはさらに書いている。裏切ったワリ・ハーンに対して行動を起こそうとしているベンガル・スルタンの第二随行隊は、ナラメイッラを復位させた。ナラメイッラは都をムラウーに移した。この地を占拠していた者たちからムラウーを守るため、およそ一万人の随行兵士がそこに定住した。一万人のムスリム兵士が定住したこと、そしてベンガルのスルターンが援助したことについては、エー・チャン博士とJ・P・ライダー博士によって確認された。(2003年のエー・チャン博士の公開書簡、1998年のJ・P・ライダー博士の記事『ムスリムの名を持つ仏教徒の国王たち』)
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