神話なし、事実のみの<ロヒンギャ史> 08 

ウー・チョー・ミン 

 

ロヒンギャの民族的アイデンティティー 

 ロヒンギャの民族アイデンティティーは独立後のミャンマーでより顕著になった。国籍の帰属と少数民族の表明は、まず人種と民族性によって定義されてきた。(アリス・カウリー 2014

 西ビルマのアラカン地区はバングラデシュと隣接し、アラカン山脈という高い山脈でミャンマーのその他の地域と隔たっている。その歴史はベンガルとの相互依存の歴史だった。それは文化、経済、労働の交換の自然の源泉だった。東ベンガルとアラカンは何世紀もの間、おなじ支配のもとにあった。人口の変動があった。このようにラカインはかつて、そして今も仏教徒の地であると主張するのは歴史とは異なっている。(パメラ・グトマン 2014

 アラカン史研究で博士号を取ったパメラ・グトマン博士は明確に規定する。

 もっとも早い時期に誰がアラカンに住んでいたのか、わたしたちは知りません。離れた地域に今も生き延びている少数民族がもっともらしく思われます。すなわちムロ、カミ、サクといった人々です。現在支配的な人々はラカイン人で、9世紀にアラカン・ヨーマ(山脈)を越え始めたビルマ族の前衛だったように思われます。彼らはアラカンに入った最後のグループでした。(パメラ・グトマン 2001

 輝かしい歴史学者タン・トゥン博士もまた光を当てる。

 ラカイン人はビルマ人の支系だ。彼らは10世紀にパガンからアラカンに入ってきた。10世紀より前のアラカンの古代史はインド人に関係あると、ほとんどの歴史家によって定説となっている。現在のアラカンでインド人と関連のある人々はロヒンギャである。

 現在のロヒンギャは、この沿岸州に居住するさまざまな民族のムスリムの祖先から、文化遺産を受け継いでいる。1820年代にアラカン地域を植民地支配した英国より前に、何世紀もの間、アラカンの行政的、政治的境界線は王位が家来やはっきりしないテリトリーをコントロールする能力があるかどうかで変動した。アラカンの沿岸地域は、さまざまな民族、さまざまな宗教の人々が居住していた。彼らは一時的な商業的共同体であり、永久的な居住者である。彼らはアルメニア人、ポルトガル人、オランダ人、ペルシア人、アラブ人、そして今日丘陵に住む人々である。当時は境界線が流動的であるだけでなく、民族的アイデンティティーもまた、はっきりしなかった。(マイケル・チェイニー 1998

 こうしてロヒンギャの民族的アイデンティティーは、イスラム教徒、あるいはラカイン・ムスリム(イスラム教徒)に置き換えるだけで再浮上してくる。新しいアイデンティティーは前のミャンマー政府に、また現在の国際共同体に認定された。1961年5月、ラカイン・ムスリムの代わりにロヒンギャと呼ぶ閣議決定がなされた。(ニュース・ブルティン 1991

 

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