神話なし、事実のみの<ロヒンギャ史> 10 

ウー・チョー・ミン 

 

ロヒンギャに対する姿勢の変化 

 ロヒンギャを先住民として受け入れたものの、その後政府の考え方は大きく変わってしまった。1920年代と30年代、事態は悪くなる一方だった。わたしたちはラカイン人であり、差別されるはずはなかった。1930年代から40年代、ラカイン人の一部はムスリムに対して悪感情を抱くようになった。彼らは将来をムスリムと分かち合おうと考えなかった。決定的、絶対的な決意表明がなされた。1942年にムスリム連続殺人事件が起きてしまったのである。ムスリムにとってラカイン人はもはやパートナーではなかった。ムスリムは社会的にも、政治的にも歓迎されなくなった。ムスリムに対する批判は日増しに強くなった。1942年の集団間暴力は、戦争前から高まっていた反インド人感情と組織的運動がもたらしたものだった。

 わたしの信念によれば、この排他主義はアラカンの将来に深刻なダメージを与えるはずだった。1982年に新しい市民法が成立するまで、イスラム教徒、あるいはロヒンギャは市民権を享受していた。アラカンのこの反ムスリム、反ロヒンギャの動きはロヒンギャに関するすべてを非難し、拒絶していた。ロヒンギャはローハンの人々という意味である(アラカンのほかの民族は自分で採用する、あるいは政府から名前をもらう)。

 ロヒンギャという言葉は事実上、ムスリムと同義語になった。ロヒンギャの敵対者の隠された動機は、アラカンを仏教州にすることだった。彼らはロヒンギャを排除したかったのだ。英占領期の記録がロヒンギャの民族的アイデンティティーの誤解を生みだしたもとの一つといえるかもしれない。

 こうして偽情報と差別的な行政メカニズムが、長い間にわたって育まれてきた。彼らはある程度成功してきた。というのもロヒンギャは長く抑圧され、アラカンでも軽んじられた、かよわい存在になっていたからである。ロヒンギャに対して多くの質問が向けられた。それに対する拒絶や反対はここまでの章で説明してきた。しかしながら、

 もっとある。彼らは言う。「このロヒンギャたちは不法侵入者だ。ムラウー朝よりも前にムスリムはいなかった。ムラウー朝に小さなムスリム・コミュニティーがあっただけだ。地元のムスリムなんて存在しない。いるのは外国人だ。アラカンの歴史の中で政治的な役割を持ったことはない。ムラウー朝時代にいたのは奴隷の子孫だけだ。ロヒンギャという言葉も政治的な目的を達するために、独立後に作られたものだ」

 しかしながらこの論考の読者には、わたしがこれまで述べたことをもとにして、彼らの言い分が真実かどうか、また本当のロヒンギャとは誰なのか、他に影響されることなく、自分自身の判断を下してしてほしい。そしてロヒンギャに対しての言いがかりに対して説明することは有益だとわたしは信じる。それは非難によって作られた混乱を少しは落ち着かせるだろう。彼らの言いがかりはつぎのようなものだ。

(1)ロヒンギャは外国人だ。英国の植民地時代の移民である。英国側の記録がそれを証明している。
(2)ロヒンギャという言葉は近年作られたもの。歴史的ではない。
(3)ラカイン時代のムスリムは奴隷の子孫とナラメイッラのベンガルの随行員の小さな共同体にすぎなかった。
(4)奴隷の共同体は結婚が許されなかった。
(5)ラカイン時代のムスリムは旅行許可証を持たねばならなかった。
(6)1942年の暴動はムスリムが始めたものだ。
(7)ムジャヒドはラカインを迫害した。
(8)ロヒンギャの文学や文化はすべてラカインと異なるので、彼らをビルマ人とみなすことはできない。
(9)ロヒンギャは最近バングラデシュから大量にやってきた不法労働者にすぎない。

 悲しむべき点は、これらはロヒンギャの間違ったイメージを拡散してしまったことである。これらのどれも真実ではなかった。このあと詳しく見ていきたい。

 彼らの言いがかりに対して答え、説明する前に、これまでの論考から、読者はすでに正しいロヒンギャの歴史を心に描いていることをわたしは確信している。こうした質問をしているのは誰なのか、ロヒンギャを否定する動機は何なのか、読者は答えを見つけることができるだろう。いわゆるロヒンギャが英植民地時代の移民というのは間違っている。地理的、歴史的な文脈から言えば、ロヒンギャは古代からのネイティブである。言いがかりに近い質問に答えることで、読者はそれを理解し、他に影響されず、偏向なしで、独自の判断を下すことができるだろう。

 

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