(3)ムラウー王朝時代以前にムスリムもロヒンギャも存在しなかった?
これは本当なのか? ある人々の早期の歴史を消し去るのは容易なことではない。この論考の目的はロヒンギャの紹介をすることであり、彼らの歴史についてのいわれのない拒絶を一掃することである。
わたしはすでにこれまで古代から現代まで、ロヒンギャの歴史をつなぎあわせてきた。繰り返しと退屈さを避けるため、ここでさらにまとめて、正確を期したい。間違った考えと盲目的な非難に対し、反証するため、歴史の早い時期に戻らなければならない。アラカンはサイクロンの多い地域である。サイクロンは頻繁に沿岸地域を襲ったが、アラブ人やイラン人の交易者に開かれた土地でもあった。カヌンゴ博士によると、アラブの商人は15、16世紀に西欧人がやってくるまで、海上貿易にもっとも秀でた人々だった。西欧人はアラブ人航海士の助けを借りて東への航行ルートを知ることができたのである。今日にいたってもなお、航行の専門用語の多くはアラブ起源なのである。(カヌンゴ博士 1988)
アラブ人は交易活動に沿って宗教を広めてきた。ラカイン年代記は8世紀にイスラム教がアラカンに達していることを認識している。嵐に直撃されたアラブ船が近海で難破したのである。マハタイン・チャンドラ(788―810)の時代、サイクロンによって難破した船の船員が浜辺に打ち上げられ、そのままアラカンに定住すると、イスラム教を広め、ムスリム共同体が根付いたのだという。(ウー・ンガ・メー参照)
アラカンだけでなく、ベンガル湾やインド洋の沿岸地域ではどこでも同じような体験をしているのだった。(カヌンゴ博士参照)
ノーベル賞(経済学)受賞者アマルティア・セン博士が言うには、8世紀以来、すなわち軍事的支配者が内陸からやってくる何世紀も前、海上のアラブの商人によってイスラム教がインドに広まった。(アマルティア・セン『論争されるインド人』)
もしインドでアラブ商人によってイスラム教が布教されたという考えを受け入れるなら、彼らがアラカンでも布教をおこなったと考えるのは論理的である。ビルマ人の歴史家と同様、ラカインの歴史家も16世紀まで、アラカンの海外交易がアラブ人の手中にあったことを認識している。アーサー・フェア卿、G・E・ハーヴィー、R・B・スマートの著書のなかの、788年、マハタイン・チャンドラの時代、アラカン(ウェータリー)に難破船のアラブ人が庇護を受けたという話があるが、それはヒントになるだろう。この船員たちはアラブ人で、アラカンに定住したのである。ラカインの政治家であり歴史家でもあるウー・ラ・トゥン・プルはしぶしぶ古代アラカンにムスリムがいたことを受け入れた。早期から16世紀まで、アラカンの海外交易はアラブ人、イラン人、インド人の手の中にあった。(ウー・ラ・トゥン・プル 1982)
現在と違い、当時の商人たちはひとつの場所に長く滞在した。商品を集め、国王からの認可を得て、気候条件がよくなるのを待つだけで、相当の長い時間を必要としたのである。
ムラウーには外国人の居留区があった。彼らは「プッカ・モスク」を建てた。そのようなモスクの祭壇(説教壇)の石板はアキャブのアーカイブに保存されている。(パメラ・グトマン 2001) 初期のイスラム教徒のほかの石板や石碑も残っている。(アブ・アーニーン 2003)
これらの石板、碑文、その他宗教的遺物、建築物などから、早い時代からムラウー王朝の頃まで、相当のムスリムがいたことがわかる。ベンガル、マレーシア、インドネシアのイスラム教もまた、ムスリム商人や船乗りにルーツを持っているのである。インドネシア・アチェ省の都市バンダル・アチェはかつて海港であり、その名自体アラブ語だった。現在ロヒンギャの歴史性、真正さを問題にしている人々は、ムスリムがアラカンに根付いていた頃のことを問うこともなかった。
ウー・キン・マウン・ソーは、9世紀のはじめはまだインドネシア、マレーシア、ベンガルにムスリムが来ていなかったと主張している。この時期にアラカンにイスラム教がどうやって届いているだろうか。受け入れられる論拠ではない。アラカンにイスラム教が到達していることが、インドネシアに到達する条件となるわけではない。ウー・ンガ・メーのような初期のラカインの研究者を含む信頼できる情報源によれば、9世紀にはアラカンに、ムスリムの居住者がいたことがわかっている。
中世のはじめにムスリムが存在したというもうひとつの堅固な証拠は、ラカイン年代記そのものである。「13世紀のアラカン王アヌ・ルン・ミンの時代、さまざまな分野のきつい仕事に4万2千人のムスリム労働者がついていた」。(ラカイン・サヤドー参照)
外国人歴史家たちも同意見だ。G・E・ハーヴィーはつぎのように書いている。「アラカンは仏教徒が多数派だが、海や陸からのイスラム教の浸透を阻止することはできなかった。13世紀までにイスラム教はアラカン中に広がっていた。聖バドルの廟バドル・モカンはアラカンの沿岸に点在していた。(G・E・ハーヴィー参照)
アキャブにはなおもバドル・モカンが残っている。ベンガル湾の沿岸部にはまだたくさんのバドル・モカンがある。エミール・フォーカッマーはアキャブのバドル・モカンをのちのアラカンの仏教寺院の元型とみなしている。(エミール・フォーカッマー参照)
現在、すべての宗派の人々がこの廟を訪問している。目下のところ廟の境内にアラカン海軍基地司令部があるのだが。バドル・モカン周辺のムスリム住人は立ち退きを命じられ、モスクを含む廟一帯は軍管理のもと、仏教寺院に宗旨替えさせられている。英国がアラカンを占領したとき、廟の管財者はメレズ・ジャンという女性だった。そして英国はバドル・モカンのトゥジ(長)にフセイン・アリなる者を任命した。命令はペルシア語だった。(R・B・スマート参照)
結局ムラウー王朝前のアラカンにおけるムスリムの存在の証明は、ふたりの著名なビルマ史教授、G・H・ルースとタン・トゥン博士に委ねることになりそうだ。タン・トゥン博士は石碑を引用しながら、北アラカンを統治したムスリム王がいたと述べている。これらの王たちはアヴァの王たちにとても友好的だった。それは東ベンガルがイスラム教徒になった12世紀のことだろう。おそらくイスラム教徒の部族長や指導者が国の一部を転向させ、支配を確立したのだろう。(G・H・ルース参考)
彼らが言うには、現在のマユ地区のロヒンギャが早期に定住したムスリムの後裔ではないかということだ。というのも彼らロヒンギャは千年以上もここに暮らしていると主張しているからだ。千年ではないとしても、少なくとも八百年はここにいるという。(タン・トゥン博士 1994)
実際、この初期の時代、明確な領土の主権の及ぶ境界線というものはなかった。チッタゴンは多くの人にとって論争の渦の中にあった。統治者の変動はある意味でありふれたことだった。その世紀前後の政治的状況は、タン・トゥン博士の主張を支えた。
G・E・ハーヴィーは言う。12世紀半ば、有名なマハムニ寺院は繁茂した草に埋もれていた。ラカイン州がスポンサーとなってまとめた1984年の年代記が言うには、12世紀のアラカン王ダサラザは、深い森の中に消えたマハムニ寺院を見つけるために、ムロ族(山岳民族)の手を借りなければならなかった。
J・ライダーは言う。「アラカンは不安定な場所になった。国王たちはか弱い存在だったが、13世紀にミン・ティー王が現れると、そんな時代も終わった。都の意向次第で、この国の統制は厳しくもゆるくもなった。一方、南アラカンはモン族の支配下に落ちた」。
ラカイン年代記中のミン・ティーの百年を超える在位期間(1284―1394)は、歴史家を悩ましてきた。歴史家は言う。「ラカイン年代記はこの期間の国王の失われた年数を穴埋めしているに過ぎない。1094年頃、ピュー人とモン人はアラカンを侵略し、一定期間支配し、マハムニ寺院を破壊し、宝石類を根こそぎかっさらった。五十年の間、寺院のメンテナンスをする人がいなかった。それは森の中にすっぽりと隠れていた。1150年になってダサラザ・ミンは森を切りはらって寺院を発見し、修理を施した。これはつまり12世紀はじめ、アラカン王は統制能力を失い、その政権が倒壊したことを表わしている。(ウー・ニョ・ミャ 2003)
こうした事実をすべて考慮すると、確かに言えるのは、この時期、北アラカンをムスリムが支配していたことだ。ムスリムはこの時期および国王たちのことを記録に残している。この記録は「プッティー」と題された本の形にまとめられている。彼らは余暇の時間に集まってこれをよく吟唱している。これらの本は「ハニファとケーヤプリー」「ダスタネ・アミール・ハムザ」である。これらはベンガル文字が使われているが、ロヒンギャ方言で書かれている。
この記録で書かれているのは、北アラカンを支配していたハニファ国王と女王のケーヤプリーの物語である。彼らは「ミンガラル・ジ山脈」の二つの山頂を玉座とする。二つの山頂は今も地元ではハニファ・トンキとケーヤプリー・トンキとして知られる。(トンキは山頂の意味)
アミール・ハムザ王はガウランジ(プルマ上部とマーユー谷)の王と言われている。彼は長い間アラカン内陸部の王と戦争をしていたと言われる。これが真実の話かどうかはわからないが、歴史的な情報を与えてくれているのも事実だ。「ダニャワディ・アレ・トー・ポン」にもまた、ベンガルの俘虜となった王子が13世紀、アキャブ(シットウェ)の知事になったという話が含まれている。
[訳注:『アミール・ハムザの物語』(ハムザナーマ)はイラン、パキスタンを中心に、イスラム圏全体に広がった長大な叙事詩。ページ数にすると4万5千ページにも達するという。しかしこの中にハニファとケーヤプリーの物語は見当たらないので、「ご当地物語」のような枠があるのかもしれない。ちなみにW・ダルリンプルは『九つの生』の一章をこの物語を歌う現代の流浪の吟遊詩人に当てている]
ムラウー朝時代以前にムスリムが存在したことを示すもうひとつのポイントは、イスラム教の法、シャリーアの導入である。これは王座を奪われたナラメイッラ王のベンガル人随行員の長であるワリ・ハーンによってアラカンにもたらされた。ワリ・ハーン将軍はナラメイッラがふたたび王座につくよう手助けしたが、結局裏切って自分自身がアラカン王となった。彼はべつのベンガル王の随行員にその座を奪われるまで、アラカンを支配した。(ベンガル地名辞典 1928)
ここで考えるべきことは、もしムスリムがいなければ、ワリ・ハーンがシャリーアの法を導入することはなかったということである。というのは、シャリーアはイスラム教徒にとってのみ意味があるのだから。そのときまでムラウー朝は築かれていなかった。つまりムラウー朝以前のイスラム教徒の存在を否定するのは、歴史に対して無知であるか、あるいは政治的意図があるかの、どちらかである。自分たちの歴史を発見し、記録することができなかったのは、イスラム教徒の弱みではあるが。アラカンのムスリムたちはミャンマー仏教徒の主要な流れから落ちこぼれてしまっていた。彼らが観察されず、記録されなかったのは、彼らの歴史のデリケートな部分でもあった。
しかしウー・ラ・トゥン・プルはワリ・ハーンの裏切り、そしてつづいて自分自身がアラカン王の座についたことにスポットを当てている。もしムスリムの居住者がいなかったら、ワリ・ハーンはどうやって自ら王位に立っただろうか。エー・チャン博士とウー・キン・マウン・ソーの否定的見解はばからしい主張と言わざるをえない。
ムラウー朝以前のラカインにムスリムが存在したことをはっきりさせるために、ヤンゴン大学の歴史教授G・H・ルースの言葉を借りよう。
パガン時代までさかのぼれるかは疑わしいが、この宗教は古く、簡単に否定することはできない。ナフ川の東側、マユ川地域の主な住人はロヒンジャ(ロヒンギャ)と呼ばれる人々である。彼らは敬虔で、学者のような心を持ったムスリムである。彼らはこの地域に千年以上も住んでいると主張する。これは誇張に過ぎるかもしれない。
しかしムスリムの侵略者がベンガルを占領した1202年、そのあとすぐに彼らはアラカン国境に到達し、初期のパガンの王として知られるパティッカラ(クーミラ)仏教王国を破壊しているのである。この最前線で、地元の部族を含めた戦闘が起きているのは間違いない。そしてムスリムの将軍か、転向した地元の首長がビルマ側の王位に立ったようである。(パガン・ビルマ以前の局面 1985)
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