(4)ムラウー王朝時代、奴隷の子孫とナラメイッラ王のベンガル人の侍従から成る小さなムスリム共同体があるだけだった?
ラカイン王が軍事作戦を遂行している間に、何千人もの戦争捕虜が東ベンガルから連れてこられた。(ラカイン・サヤドー参照)
アラカンでは何世紀にもわたって奴隷狩りビジネスがおこなわれていた。ラカイン人はポルトガル人の海賊と協力して、16世紀から17世紀、何千人もの奴隷狩りをおこなった。彼らのほとんどはアラカンで雇われた。(カヌンゴ博士参照)
ウー・ラ・トゥン・プルはエピソードを一つ一つ挙げ、奴隷を運ぶ船の名に言及し、具体例を示した。彼の計算によれば、何万人にも及ぶということだった。(ウー・ラ・トゥン・プル 1982)
しかしムスリムの人々は、彼が挙げた数字に対し懐疑的だ。現在のアラカンのムスリムを非合法扱いする意図をもって、奴隷の数を少なめに見積もっている可能性がある。ウー・ラ・トゥン・プルが反ロヒンギャの立場にあるのは我々が認識しなければならない事実である。
J・ライダー博士の最新の調査によれば、ナラメイッラの随行隊は一万人の戦闘員から成っていた。この人数がひとつの随行隊のことを指しているのか、ふたつを指しているのか、明言していない。ナラメイッラが即位するようふたつの軍隊が手助けしたのである。(J・ライダー 2002)
ベンガル王の随行としてやってきた軍隊は、二つ合わせて2万人ということになる。しかしベルリンのウ・キン・マウン・ソーのような極端な人種差別主義者は、ベンガル王がラカイン王を助けたことや、復位したナラメイッラ王によってベンガルのパタン人随行隊のためにムラウーにサンディカン・モスクを建設させたといった話を否定する。当時ベンガルはパタン王の支配下にあった。
しかしネウィン政権下のミャンマー国家委員会のメンバーでもあった著名な歴史家ウー・ラ・トゥン・プルは、つぎのように書いている。
クーデターを起こしてナラメイッラ王を監獄に投げ込み、自らラウンチャ(ラカイン)の王となったのは、ベンガル第一随行隊の隊長である悪名高いウ・ル・ハーン将軍[ワリ・ハーン将軍]である。そのことを知ったガウルのスルタンは、すぐに反応し、背信の将軍を罰するためにあらたに装備の整った、大きな軍隊を送った。スルタンはウー・ル・ハーンの皮が太鼓の面として張られるまで満足しなかった。太鼓が叩かれている間、彼が統治しているときずっと背信行為を行っていたと宣言しているかのようだった。(ウー・ラ・トゥン・プル 1998)
最終的に、ベンガルの第二軍隊の協力によってナラメイッラ王は王位に復帰することができた。この部隊は首都近辺に留め置かれ、国王と王国を守護した。そのときからパタン文化とペルシア文学はアラカンのムスリム社会に浸透していった。[訳注:パタン人とはパシュトゥーン人のことであり、アフガン人のことを指す]
パメラ・グトマン博士は述べる。「ムラウー朝の初期の遺跡はほとんど残っていない。もっとも古いのは、サンティカン、ことシンディ・ハーン・モスクで、ミン・ソー・モン(ナラメイッラ王)がベンガルの亡命先から戻ってきたあと、彼の部下によって建てられたものだ。しかしこのモスクは最近破壊されてしまった」(パメラ・グトマン 2001)
考えてみると、かなり早い時期からムスリム転向者がいて、ムスリムがこの地を支配してきたのである。それは16世紀はじめのインドからやってきたムスリムの布教の賜物といえるだろう。ムスリムの伝道師であるウー・カディル、ウー・ハヌ・メーヤ、ウ・ムサと仲間たちは、16世紀はじめのアラカンの王たち(おそらくザラタ・ソー・モン、タザタ、ミン・カウン・ラザ)にアラカンでイスラムの教えを説くことが許されたのである。(J・ライダー 2002)
彼らはさまざまな場所にモスクを建て、イスラム教を広めた。人々は大量に改宗しはじめ、イスラム教は村から村へと広がった。インドからつぎつぎと伝道師がやってきて、どんどん新しいモスクが建てられた。その勢いはすさまじく、広範囲に及び、気がついた年長のラカイン人は警告を発し、ミン・バジ王(ザバウク・シャー 1532―52)に不平を漏らした。ルトー(Luttaw 議会)を召集したあと、国王は布教活動を禁止した。しかしその頃までにはすでに何十万人ものムスリム転向者が生まれていた。(サヤドー・ウ・ニャナ 1996)
1573年、デリーのアクバル帝によってベンガルがパタン人から奪われたとき、またしても大量のパタン人難民が発生した。彼らはどこでも高いポストの仕事を得ることができた。ラカイン人は彼らに敵、すなわちムガル人やポルトガル人と戦ってくれることを望んだ。彼らはパタン人にとっても敵だった。(カヌンゴ博士、ライダー博士 2014)
ポルトガル人祭司マンリケ修道士は、禁じられているティリ・トゥダンマ王(スリム・シャー1世)の戴冠式に出席した。マンリケはパレードに参加しているほとんどすべての部隊がイスラム教徒であると述べている。(M・コリス)
J・ライダーはナラパディ・ミン(1638―1645)がテクスタイル産業を興し、海外交易を発展させようとしていると指摘している。彼は一部の大臣から反対の声があがったにもかかわらず、チッタゴンから3万人の染め物師と機織りをアラカンに連れてきた。若い国王シリスダンマラジャ(1622―38)は彼の前任者の政策に従い、1623年には3万人の追放されたベンガル人を奴隷とした。(ティボー・ドゥルベール J・P・ライダー 2011)
もうひとつの重要なこと。ラカイン年代記が示すのは、ラカイン王たちのムガールに対する戦争で、トリプラ、ビルマ、モンはカラー(ラカイン語でムスリムを指す)という言葉を使用している。バグーやモーラミヤインを侵攻する際、ミン・ラザ・ジ王(スリム・シャー二世)は9万人のカラー戦闘員を雇った。(ラカイン・サヤル・ドー)
年代記は数字を誇張しているのか。ではその半分、5万人としてみよう。16世紀の5万人は自然の成長レートで今なら500万人になっているだろう。さらに、ムガル帝国の王子シャー・シュジャーの従者たちがいる。彼らは牧畜農家になり、国王の王室警護となった。これらをすべて加えて、我々はムラウー朝時代の人口を想像することができる。小さな共同体などと言えるだろうか。それはあまりにもばかげている。ムスリムはアラカンでマイノリティであったことはなかった、今日、浮浪者のような、実在しないかのような扱いを受けてはいるが。
ムラウーでは彼ら自身の国王をつくりだし、好みによって、国王を選んだ。第37代ムラウー王はスルタン・カディル・シャー(ラカイン語でカラー・カテーラ・ミン)である。
最期のムラウー国王マハ・タマダはムスリムで、彼の遺体はアマラプーラのシュエ・ポウン・シン・モスクの境内に埋められた。ムラウー朝時代と比べ、現在のイスラム教徒の人口は減少している。なぜなら今なおつづく弾圧、抑圧、虐殺によって人口の半分が国を去ったからである。鍵となるのは、1997年発行のSPDC(国家平和発展評議会)の刊行物の中に見いだされる。それによるとイスラム教はアラカンからミャンマー国内に広がったのである。
1710年にいた3700人のムスリムがサネ・ミン王の時代にミャンマーに逃亡した。彼らは12の異なる場所に定住した。どうしてこういうエクソダスが起きたかといえば、ラカイン王サンダ・ウィザヤがムスリムを弾圧したからだった。彼はまた、カマンをラムリー島とアキャブの沖合の二つの島に追放した王でもあった。タン・トゥン博士は、3700人の国外追放者はラカインのインド人だという。このように彼らはラカイン語を話すムスリムではない。彼らは現在のロヒンギャの先祖なのである。
ウー・キン・マウン・ソーは『仮面の後ろに』の中で述べる。「これらのムスリムはサンドウェーから来たベンガル・パゴダの奴隷たちだ」と。実際、彼らは奴隷ではない。彼らは戦争捕虜であり、軍事技術や伝統を持った人々である。これが、アラカン王が彼らをビルマに追放した理由だった。ボードー・パヤーが軍事的侵略を行っている間、彼は彼らの子孫を探して自分の部隊に入れた。つまり、ムラウーには小さなムスリムの共同体しかなかったというのは、あまりにばかげていて、事実ではない。もし小さいのなら、どうやってのちに自分たちの王を選び出すことができたというのだろう。
J・ライダー博士は述べる。
1785年の征服のとき、ラカインにはムスリム共同体があった。一方、ムスリムとヒンドゥー教はラカインの数百人、数千人のなかにいた。彼らは追放され、ミャンマー上部に再定住した。このムスリムたちは彼ら自身のインドの言語を話した。その言葉で自分たちをルインガ(Rooinga)と呼んだ。
国王はアビシャ・フセインをアラカン・ムスリムの長に任命した。 疑いようもなく、アラカン王国の中の都市部にも、郊外にもムスリムの共同体があった。1785年にそれらはミャンマーの一部となった。(ライダー 2014)
ライダー博士はさらにつぎのように述べる。
18世紀後半、ミャンマー軍の激しい侵攻を受けて、何千人ものアラカン人がベンガルへ逃げ出した。ミャンマー軍はボードー・パヤー国王のシャム遠征軍のために、米の備蓄をラカイン人から徴収しようとしたのである。 彼らの多くがアラカンに戻らなかったはずがない。不幸なことに、その詳細はわかっていないが。(J・ライダー 2014)
ときおりムスリムがアラカンを支配し、それによってこの地でのイスラム教の影響は増大した。直接的な証拠ではないが、ポルトガルのソースによると、東ベンガルのフセイン・シャーに従属していた。アラカンの一部にはイスラム教徒の法が施行された。
バ・ソー・プル、すなわちハリマ・シャー(1459―1482)のあと、ダウリヤ(1482―1492)、バ・ソー・ニョ(1492―1494)、ラン・アウン(1494)、サリンガ・トゥ(1494―1501)と弱い国王が続いた。彼らはムスリムの称号を持っていないのだ。彼らはまたチッタゴンを失った。やはり直接的な証拠ではないが、フセイン・シャーはチッタゴンを占領していた。
デ・バロスによれば、南チッタゴンやアラカンの一部を含む広大な領域がコダヴァスカーン(フダ・バクシュ・ハーン)の支配下になった。アラカンの従属がなければ、これはありえなかった。(カヌンゴ博士)
カヌンゴ博士はつぎのように述べる。
ミン・ビン、ミン・バジ、ザブーク・シャーと、力の強い王朝のあとの16世紀、アラカンには混乱が起こった。ベンガルのガウル王モハメド・シャー・スルはチッタゴンとアラカンの一部を占領した。モハマド・シャー・スルの将軍は、アラカン国王(おそらくミン・ディッカ 1553―1554か、ミン・ショー・ラ 1554―1555)に、ベンガル・スルタンの正当性に屈服を強いた。おそらくパタン人がラムーの中心部とアキャブ地方の一部を征服したようである。彼は1555年に硬貨の鋳造を命じた。硬貨が鋳造された場所は、アラカンである。
N・B・シニアルのような著名な貨幣学者が、硬貨に関する記述を解釈しながら、モハマド・シャーがアラカンを征服したのは事実であると結論づけている。彼はまた、硬貨はモハメド・シャーのアラカンの硬貨を示すだけでなく、大英博物館に保存された硬貨がおなじ文面であると指摘する。このつながりから、貨幣学者のロジャーズ・レイムポールとライトは、モハメド・シャーの硬貨について、おなじ考えを表明している。この硬貨は、アラカンの名の下で鋳造されている。
実際、チッタゴンはトリプラやアラカンのムスリムの中の中心地だった。支配権と人口の変動はたしかにあった。だからこそチッタゴン地区には何十万人(ほとんど百万人)ものラカイン人がいるのである。こうして多くのムスリムがイスラム教徒政府とともにアラカンに到達するのである。
ラカインの歴史家、ウー・サン・シュウェ・ブ、ウー・アウン・タ・ウー、ウー・ラ・トゥン・プル、パンディット・ウー・タル・トルン・アウンらはみな、ムラウー朝時代、広範囲に及ぶ存在を認識した。最後に、ラカイン政治家、ボン・パウ・タ・チョーは、『ロヒンギャの危機』のなかでアラカン・ムスリムを三つのグループに分けている。
グループ1 ボードー・パヤーの軍によって連れて行かれた捕虜たち
グループ2 ベンガルへ逃げた人たち
グループ3 アラカンに残っている人たち
以上まとめると、小さなムスリムの共同体ではなく、そこには何百万ものムスリムが待っているのである。