(5)奴隷は結婚生活が認められていなかった?
ラカインのすべてのムスリムが戦争捕虜や奴隷の子孫というわけではないことは、肝に銘じておかなければならない。もちろんポルトガル人と組んでおこなった略奪や海賊行為は、ムラウー朝時代におけるラカイン人の際立った活動であることは間違いないが。
いわゆる奴隷共同体は、アラカンの歴史における重要な現象である。彼らは生まれながらに奴隷というわけではなかった。下賤でない生まれの男女が強制的に奴隷の境遇に落とされたのである。この奴隷の人々が男女どちらかに偏っているのでないことは、たしかな情報源から明確に言えた。(ハーヴィー、カヌンゴ博士 1988 参照)
正確な意味でいえば、彼らは奴隷ではなかった。彼らはそれよりはるかに自由のある生活を送っていた。とはいえ、彼らは激しい、荒っぽい仕事、とくに農業関係の仕事のために雇われていた。工匠や技術職の人もいたが、彼らは国王自らに選ばれた者たちだ。たとえばアフガン人王の大臣の息子、シャー・アオルことマジュリス・クトゥブがいい例だ。彼は宮廷付き芸人としてふたりか三人の王に連続して仕えた。彼はじつは戦争捕虜奴隷だった。彼は作家、詩人で、のちにはラカイン王サンダ・トゥダンマの大臣になった。彼はたくさんの本を書いた。彼は読み書き能力の天才だった。アラビア語、ペルシア語、ベンガル語の賛嘆すべき技能と能力を持っていた。ベンガル語の作品、『パドマヴァティ』『シカンダルナマ』『ロシャン・パーンチャリ』はすばらしく、ベンガル文学に貢献した。(J・ライダーとティボー・ドゥベール 2011)
もうひとりダウラット・カズィという宮廷詩人がいる。ダウラット・カズィもアラオルも、アラカンの行政や王室の軍隊に高位の職を得ていたムスリムたちの後援を受けていた。宗教建築物の建設や貯水池作りなどと同様、詩人を援助するのも、こうした後援活動の一環だった。パトロン自身、アラカン宮廷に取り入ろうとしているのが見え見えだった。
『ロシャン・パーンチャリ』の中で、ムガル亡命皇子シャー・シュジャの従者であったことを根拠なく非難されたことを語っている。彼は七年間刑期を務めたが、彼の命を救ったのは、もうひとりの大臣ダウラット・カズィだった。(カヌンゴ参照)
17世紀、ムラウー朝宮廷のエリートのメンバーは、多くが宮廷警護、行政官、宮廷下僕、宦官、詩人だった。(J・ライダー 2015)
彼はさらにベンガルの作家や詩人がいると述べている。彼らの作品は宗教的で、すなわち、彼らの目的はあらたに転向してイスラム教徒になった人々に、堂々とイスラームの原理を教えることだった。(この時期に転向者が多かったことがわかる)
彼が語るには、この頃マガン・タークルやアシュラフ・ハーンなどムスリムのパトロンも多かった。アシュラフ・ハーンはアラカン軍の司令官だった。(ライダー 2011)
アラカンのこうした奴隷たちは戦争捕虜であったり、ポルトガル人とラカイン人共同の海賊による被害者だったりした。これらは18世紀以前のことだった。たとえまともな人間であったとしても、結局彼らは結婚生活を送ることができず、子供を持てず、奴隷の女は妊娠すら許されなかった。しかしムスリムにとってはどうしようもなかった。ムスリムのラカインの歴史家たちは、1660年代にシュジャ皇子がサンダ・トゥダンマと言い争いをしたとき、シュジャ皇子の側についた。アラカンに結婚していない人口がどれだけであったかは、記録が残っていないので、わからない。英国の第一副司令官の1826年のレポートによると、アラカンの人口の三分の一がムスリムだという。もしラカイン人が主張するように、すべてのムスリムが奴隷の子孫で、自由民のムスリムがいないとしたら、彼らはどこから来たのか。英植民地時代の年代記は、シットウェ(アキャブ)の人口のほとんどがムスリムだという。
さて問題は、18世紀半ばから後半にかけて、彼ら自身の王を擁立し、国全体で反乱を起こすほどのムスリムが、どこから湧いてきたかだ。(ラカイン州年代記 1984)
一部のラカイン人と協力して、18世紀半ばという混乱した時代に彼らの選択した王を擁立したムスリムはどこから来たのか。(ネ・ミ・サン・アウン 2002)
これらのムスリムたちはどこからアヴァへ放逐されたのか、ボードー・パヤーの時代の戦争捕虜はどこから来たのか。(ボンパウ・タ・チョー参照)
やはりラカイン年代記にヒントがある。最後のラカイン王マハ・タマダは仏教を信じなかった。そして仏教徒の住民に軽蔑された。(ムスリムは彼をムスリムと呼ぶ傾向がある)もし批判する人が言うようにムスリムがいないなら、なぜムスリム関係のことをうまくやるために、ボードー・パヤーは特別ムスリム市長(ミョーワン)を指名したのか。(J・ライダー 2003 2014)
ライダー博士は17世紀のムラウー朝時代の宮廷エリートの多くのメンバーが、宮廷警護、行政官、王室下僕、宦官、詩人、作家のムスリムだったという。(J・ライダー 2015)
ロヒンギャ史の幻想的なラカイン・バージョンを見て、ムラウーのムスリムの人口が少なかったかどうか、判断していただきたい。
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