(6)ムラウー王朝時代のムスリムは旅行許可証が必要だった? 

 これはロヒンギャの政治的イメージを落とすために言われていることだろう。批判や論議は的外れで、証拠にも欠ける。ムスリムはいなかったと彼らは言う。それならこの許可証は誰が必要なのか。これは手に負えない論議だ。彼らの主張に価値を与えようと、修道士マンリケを引用する。ただこの種の発言はマンリケの著作に見つけることができない。マンリケに言及してカヌンゴ博士は述べる。

 ムラウーのムスリムは特権階級である。さまざまな理由によってアラカンの王たちはイスラム教徒に頼らなければならなかった。アラカン王の助言者たちはムスリムだった。軍の部隊はムスリムで構成されていた。スレイマン、マジュリス、ナヴェレズ、セイエド・ムサ、ダウラット・カズィ、アシュローフ、シャー・アルワルその他大勢の上級大臣たちは、ムスリムである。アラカンの外交書簡もペルシア語で書かれていた。ペルシア語はアラカンのムスリムの文書言語だった。(『チッタゴンの歴史』)

 J・ライダーはバタビアのオランダ人と交わした16世紀のペルシア語で書かれた書簡を発見した。(J・ライダー 2002

 ムスリム武装勢力は、国王ミン・カ・マウン(フセイン・シャー)とミン・ラザジ(スリム・シャー)の強さの秘訣だった。17世紀前半、それによってポルトガルと対することができた。こうしたムスリムたちになぜ旅行許可証が必要となると、論理的に想像できるだろうか。

 カヌンゴ博士によると、17世紀前半、アラカンの王座を奪おうと、二回試みている。侵略のたびに無慈悲な攻撃が加えられ、数百人が殺された。サンドウィップ島の彼らの要塞は奪われてしまった。ほかの数百人は幽閉されてしまった。この幽閉されたポルトガル人たちが旅行許可証を要求していた。この許可証を発行するのが、チッタゴンのアラカン知事だった。それはポルトガル人がラカインのライバルであるムガールと接触させないためのものだった。ラカイン王たちがポルトガル人やハンタダディ(現在のペグー)との戦争で勝利するには、ムスリム兵の参加が不可欠だった。

 マンリケのアラカンへの旅行の目的は、幽閉されたポルトガル人を救い出すことだった。(カヌンゴ博士参照)

 もしマンリケの記録の中に外国人が旅行許可証を必要とする記述があるとしても、それはムスリムに対してではなく、ポルトガル人だけの話である。彼らは現地民である。注目すべき点は、この許可証がチッタゴンの知事によって発行されていることだ。国を通過してチッタゴンまで旅行することなしに、どうやってムラウーのムスリムが許可証を得るだろうか。許可証なしでチッタゴンへ旅行できるのに、許可証を持っていくラカインの領域はないだろう。こうした背景を知れば、「ムラウー朝時代のムスリムは旅行許可証を必要としていた」という考えがいかにばかげていたかがわかるだろう。しかしこのばかげた考えによって、何十年にもわたり、ネイティブ(地元)のムスリム、すなわちロヒンギャに旅行許可証を強制するという行為を正当化してきたのである。

 

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