(二)
ボー・ヤン・アウン率いるBIA(ビルマ独立軍)は日本軍より2、3週間早くアラカンに到達した。ウー・テイン・ペ・ミンによると、BIAはなんとしてでも日本軍より先にアラカンに到達せねばならなかった。(テイン・ペ・ミン参照)
ボー・ヤン・アウンはミンビャに司令室を作った。ボンパウ本人によると、彼はボー・ヤン・アウンと親しくなり、直接仲裁交渉をして、何人かの武闘部隊のリーダーたちを救った。これはつまり正当な政府が不在のなか、武闘部隊によってなされた行為が行き過ぎであったことを、ボー・ヤン・アウンが理解したことを意味する。その地の法は彼らの手の中にあった。自分の意思のままに自由に行動することができた。のちに日本人がこの地域にやってきたとき、日本の司令官はミェボンの仏僧サヤドー・ウー・セイン・ダを逮捕した。[訳注:サヤドーは瞑想師という意味]この仏僧は、ムスリム大量殺害をバックアップし、村々を焼き払ったと認定されたのである。しかしボー・ヤン・アウンが仲裁に入り、この僧侶の命を救った。(ボンパウ参照)
サヤドー・ウー・セイン・ダはかなり影響力のある人物だった。彼は独立前の時期からボンパウとともに反乱の動きを率いてきた。(テマドー・タマイン参照)
彼は独立前からの反英国運動のリーダーであり、1946年、ボージョー・アウンサンがアラカンのミェボンに来たとき、個人的にボージョーと会うのを拒否した人物でもあった。(ウー・プ・グレ 2003)[訳注:ボージョーは将軍の意味。つまりアウンサン将軍]
この時期、ウー・トゥン・アウン・チョーやウー・ラ・トゥン・プルといったラカイン人年長政治家によるパキスタンとおなじようなアラカニスタン(アラカン国)運動が進行中だった。(ウー・チョー・ウィンら 1990)
アラカンのムスリムにとって日本軍の存在はありがたかった。彼らのタイムリーな到来によって、最悪の事態を免れることができたからである。あるムスリムの人々にとって、村が安全になり、日本人の管理下で逃げる必要がなくなった。スタン・マムード(のちの健康大臣)のような長老のムスリムは日本軍に協力した。英国から死刑宣告を受けていたブーティダウンのクイン・ダインのカラー・メアもそうだった。
ボンパウによれば、北アラカンのブーティダウンの状況、すなわち復讐に燃えるムスリムの脅威をラカイン人たちが感じていることを知って、ボー・ヤン・アウンを含むすべてのアキャブの年長者がルパ村の小学校に集まった。そこでブーティダウンのラカイン人を救出するために、武器弾薬を送ることに決定した。しかし二、三日後、武器弾薬をたっぷり積んだランチ(大型ボート)は朝早く、出発前にサッ・ロチャ桟橋で日本軍に見つかってしまった。ランチに関わっていた人々は、ボー・ヤン・アウンがとりなしてくれたおかげで罰せらずにすんだ。このボンパウの述懐は事実を示していた。放火、略奪、大量殺害行為などはたまたま起きたのではなく、よく組織された、影響力のある年長者たちの庇護のもとの行為だった。
1942年前半、英国人がアキャブから退却したとき、ボンパウは武器を担当していたカレン族の兵士たちと仲良くなった。彼はアキャブのプラウ・タウンの武器庫を襲い、その武器弾薬を4隻のボートに積んで、ミンビャのラウン・チェ・チャウンにいるサヤドー・ピンニャ・ティハのもとへ送った。ミンビャには武闘ギャングの司令室があった。この武器弾薬を彼が何のために、どこへ送ったのか、今となっては誰にもわからない。ボンパウが語るところによると、彼は武闘ギャングに軍事トレーニングを行っていた。わたしたちはアキャブの武器庫から奪った武器弾薬をどこへ持っていったかを割り出すことはできる。彼はその後ミンビャの警察に捕まり、わずかの間だが、拘束された。(ボンパウ参照)
ボンパウとウー・バ・サンふたりとも書いているのだが、マウンドーとブーティダウンのラカイン人は、アラカン南部と中央部からやってきた難民たちの報復行為に悩まされた。(ボンパウ 1973)
彼らはマウンドー地区で4万人のラカイン人が殺されたとは言っていない。最近の反ロヒンギャ勢力が広めているだけの話である。マウンドーは比較的安全と言われていた。なぜなら英国の法があったからだ。英国の治安部隊が、彼らが国境を越えるのを手伝っていたという。マウンドーのラカイン人は国境を越えて向こう側へ行くことができた。そこにある「ディヌスプール難民キャンプ」で保護されたのである。モシェ・イェガルによれば、その数は二万人だった。
悲劇も起きている。ブーティダウンでモーター付きランチに乗った難民が多すぎて、ランチが沈んでしまったのである。五月半ば、ボー・ヤン・アウンが和平交渉の旅からマウンドーに戻ってきたときのことだった。ブーティダウンのラカイン人たちはムスリムによるさしせまった報復攻撃を恐れていたので、あわててモーター付きランチに乗り込んだ。アキャブへ戻る途中のボー・ヤン・アウンもそのなかにいた。この積載量オーバーのランチは転覆し、沈没した。ボンパウとウー・バ・サンはこの転覆事故で死んだのは三百人ほどと推計している。
一部のブーティダウンのラカイン人は走って逃げだし、深い森を東へ抜け、アラカン内陸部をめざした。このように1942年の動乱によって、アラカンの人口動態は変化したのである。北アラカンはムスリムが多数派になった。その一方でアラカン内陸部と南部はラカイン人が圧倒的多数になった。(アンソニー・アーウィン 1944)
この物語の末尾には、ムスリムは収容され、留め置かれた。マウンドーとブーティダウンの報復は予想されたほど残虐なものではなかった。南で失われたムスリムの数は、北で失われたラカイン人の数をはるかに上回った。公式文書が残っていないため、人は自由に想像することができる。事実は、勝者が犠牲者を非難していることだった。もし国際犯罪法廷のようなものがあるなら、現在政府の高い地位を得ている一部の紳士は、ムスリム大量殺害の罪を法廷で裁かれることになるだろう。
暴動に巻き込まれたミェボンからラテダウンにかけての町々のムスリムの人口は40万人から50万人と言われる。アキャブ地区の全人口のおよそ半分である。その4分の1が殺されたという。また人口の半分が家・土地を失った。わずか4分の1のみが、日本人が到着し、手助けしてくれたおかげで、そこに残るか、もともと住んでいた地域に戻ることができた。
実際、この危機は正確な意味で暴動ではなかった。それは一方的な大量殺戮だった。アラカンにおける狂信的愛国者によってよく練られたプラン上のことだった。それは第二次世界大戦の暗黒期のエスニック・クレンジング(民族浄化)にほかならなかった。何十万人もの追放された、あるいは住む場所を変えられたロヒンギャは、二度とラカイン州中央部の自分の村や所有物に近づくことができなかった。この殺戮は、ムスリムに対して執拗な殺害をつづけていた仏僧ウー・セイン・ダを含む中核となるリーダーたちに対して日本軍が行動を起こしたときに、ようやく止まった。(ボンパウ 1973)
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