(9)北アラカンのムジャヒド(ムスリム反乱者)はラカイン人を迫害した? 

 それは興味深い問題の一つだった。イスラエル人歴史家モシェ・イェガルはムジャヒド反乱の原因をリストアップした。彼は指摘する。

(1)インド難民キャンプの何千人もの難民は帰還が許されなかった。
(2)帰還が許された者たちはもともと住んでいた場所に戻る権利を与えられなかった。
(3)ムスリムの政府スタッフは解雇させられた。
(4)土地は没収され、ラカイン人の間で分配された。

 これらと、さらにほかの多くのミャンマー政府の差別的行為によってムスリムは武器を手に取ったのである。この動きは自己防衛だった。同時に地下組織のラカイン武装グループができていた。ムスリムは1942年のような人種間の暴動の再発を恐れていた。(モシェ・イェガル 1972) 

 草の根レベルの事実や状況を知らない人々が、ムジャヒドはそこでは少数派のラカイン人に残酷な行為をしたと信じがちである。バイアスがかかった、偏屈な文学や偽情報は、半世紀がたった今でも、人々の心の中になおも影響を与えている。多くの人は、ロヒンギャと同様に、ムジャヒドに対しても悪いイメージを持っている。多くの人はロヒンギャとムジャヒドは同一だと思っている。ムジャヒド暴動の主な原因は、上記のもの以外にラカイン人武装反乱グループの存在がある。1942年暴動の苦い体験から、彼らを守る武装グループなしでは不安しかないと感じていた。アラカンのたくさんの反乱グループが論理と理性でなんとか現状維持し、とくにグループ同士、あるいは民族間でおさまっていた。

 北アラカンはムジャヒドの拠点だった。彼らの活動は1948年に始まった。主要グループは政府を信頼し、理解することで、1961年に降伏した。今日でも無知な人たちはムジャヒドがパキスタン人だったと信じている。もし彼らがそうなら、政府が外国の反乱を手助けする理由がない。ムジャヒドは政府からビルマにおける純粋に土着の民族のステータスを堅く約束してもらっている。(ブリグ参照) 

 実際、ムジャヒドはときに無作法で、ときに非ムスリムでなく、仲間のムスリムに対して悪口雑言を浴びせることがあった。一部の人々はムジャヒドを正当な権利だけを求める分離独立運動に色分けようとした。

 彼らはときにはおなじムスリムを殺し、彼らの村を焼き払った。それは協力的でない場合、支援してくれない場合に限ったが、しかしこういったことはムスリムにたいしてであり、ラカイン人に向けられたものではなかった。ムジャヒドのラカイン人に対する残酷さは誤解や偽情報もあったのではないかと思われる。実際にラカイン人が殺されたとか、ラカイン人の村が焼き払われたという記録は残っていないのである。そのかわりに元ムジャヒドのメンバーの長老によると、ラカイン人は彼らの地域で特別な地位を享受していたとのことである。

 ムジャヒドはラカイン人とのやりとりにおいて、我慢し、抑制的だった。彼らは民族問題に火を着けないように細心の注意を払った。敵方の民族に対して過度の力を行使しないという言葉にできない反乱グループ内の理解があった。一部のグループは正式に同盟を結んでいた。もしムジャヒドが今日人種主義者によって糾弾されているように、ラカイン人を迫害していたら、南部のラカイン人反乱者は腕を組んだままじっと立つということはなかっただろう。彼らは当然のごとく、ムスリムに報復しただろう。しかしそういったことは、ムジャヒド(ムスリムの反乱者)が1961年に降伏するまで起こらなかった。

 さまざまな肌の色や民族の反乱グループさえときには同盟を結んだ。もしムジャヒドの側に行き過ぎた行為があったら、今日、そこに光を当てようとする人たちもいるわけだが、ラカインの反乱者は間違いなく報復をしたことだろう。(『ロヒンギャの間違った歴史の批判』参照)

 ムジャヒドの無作法な行為は、ラカイン人の隊員から成るBTF(ビルマ国防義勇軍)によるロヒンギャへの残虐な仕打ちと比べると、たいして目立たなかった。ロヒンギャ議会に起こった不平に答えるかたちで、政府はこの犯罪者たちに対して行動を取り、最終的にBTFはキン・ザル・モン大将率いるチン特別ライフル銃隊に取って代わった。(テマドー・タマイン等参照) 

 1940年代後半、ラカイン人の一部は北部から南部に移った。それは彼らが抑圧されたり、迫害されたりしたわけではなく、ムスリムが放棄した、タダの土地に与ろうとしただけだった。1948年以前、ムジャヒドは存在しなかった。おそらく一部の人は罪の意識を感じ、1942年の騒乱の間に犯した犯罪を過度に恐がったのだろう。彼らには彼らなりの理由があった。1942年の虐殺のときに犯した罪を知っている一部の人は、自ら北部から逃げ出し、南部へ向かったのである。そこでは彼らは安全であり、ムスリムが放棄した土地を手に入れることができた。ムスリムが放棄した南部の土地は、ラカイン人が持っていた北部の土地の十倍の広さあった。(『ラカイン紛争追及委員会レポート』 2013) 

 

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