(10)バングラデシュ人が大挙してアラカンにやってきた?
これはロヒンギャに対する最新の誹謗中傷である。彼らがこのように言うのは、言うのが自由だからである。彼らは好機ととらえているのだろう。世界を惑わすことができると考えているのだろう。イメージを変え、永遠に差別的な烙印を押し、ロヒンギャからすべての権利を奪い取る戦術のひとつなのだろう。つぎのように、話の辻褄はあう。「バングラデシュは人口が1億5千万人もあり、人が多すぎて貧しい」のに、人口はさらに急激に増えている。近隣の国々に人を送り出すしかないが、インドは国境をふさいでしまっている。それゆえ、それを防ぐ手を講じなければ、ミャンマーに人があふれ出てしまうのである。
庶民レベルでは、想像するようなことは起きていなかった。バングラデシュは注意深くアラカンの政治的、社会的、経済的状況をよく見ていた。産業が発展しているわけでも、社会的に調和が取れた地域というわけでもなかった。アラカンのムスリムは逃げるという手段を取らざるを得なかった。迫害は激しくなり、大量のムスリムが何度もバングラデシュ側に難を逃れた。
難民問題がなくなることはなかった。地元のムスリムたちは、ほとんど飢餓状態にあった。しかし彼らは自分たちの町から外に出る権利すら持っていなかった。家計のやりくりが大変で、なんとかかつかつ生きているときに、将来を外国人(バングラデシュ人)と分かち合おうとするだろうか。ありえない話だ。経済的に苦しいとき、多くの家族は、所有物をどう公平に分配するかでもめているものだ。結局は政府のメカニズムが機能しているのである。体制を維持するために、法と秩序の執行があるのだ。しかしムスリムに対しては、間違った対応やハラスメント、侮辱行為に対して正義も行動もなかった。こんなところに外国人がどうやって入ることができるだろうか。さらには、バングラデシュ人は、ロヒンギャのなかにあれば特殊で、目立った。ラカイン人はバイリンガルである。だれもが簡単にバングラデシュ人を見分けることができた。即座に政府のエージェントか関連する官公庁に密告されることになるだろう。それゆえ外国人が北アラカンに入るのは容易ではなかった。
国境に沿って三十か所にナ・サ・カ部隊(国境出入国管理部隊)が置かれた。しかし違法に国境を越えたというニュースは聞いたことがなかった。上級管理職の官吏によれば、数千人のロヒンギャがバングラデシュ側に逃げたということである。関係する大臣たちでさえ、第一回議会の第二セッションで、バングラデシュに逃げたムスリムには三種類あると報告している。
第一グループは、職を求めて行った人々。第二グループは、医学治療を求めて行った人々。第三グループは、反乱グループに参加するために行った人々、あるいは第三国へ行った人々。思うにこの事実だけでも、上記のロヒンギャ非難を修正するに十分だ。もしあらたなベンガル人入国者にとってアラカンが緑多く、より魅力的な場所であるなら、なぜ何百万人もの土着のロヒンギャが外国で「追放者」になってしまうのか。
目下のところ、国民一人当たりの収入はバングラデシュのほうがミャンマーより上である。上記のナ・サ・カはそこの人々の生活全体をよく管理している。国境地帯での彼らの役職は、そこのムスリムの毎日の生活の動きを管理することだった。彼らは新しい不法入国者の情報を得ていたのではないのか? 完全な国境とは有刺鉄線付きのフェンスである。不法ベンガル人はどうやってミャンマーに入ったというのか。ここに十ほどの差別的で抑圧的な公的命令、いわゆる地域的命令があった。それは最後の月にようやく大統領の命令で破棄されたものだった。
これらの命令は何十年もの間、ロヒンギャの生活のあらゆる面を規制するために執行されてきた。六か月ごとのチェックと家族の確認が必要とされた。外国人がどうやってここに来て暮らすことができるだろうか。家族、家、家畜、これらすべてが登録され、写真に撮られ、いついかなるときも変化がないかどうかチェックされているのである。
現実はといえば、バングラデシュに百万人近いラカイン人がいた。彼らは望むならいつでもアラカンに自由に戻って来て、住むことができた。ミャンマー政府は融通のきく政策を取っていた。彼らはまた市民カードを持っていた。何十万人もの人々が、バングラデシュの独立のあと、アラカンに定住していた。なおも彼らのアラカンへの移住はつづいている。彼らはロヒンギャの居住地区のなかの、いわゆる数百の新しい模範村に定住している。ロヒンギャの農地を接収して。しかし非難の矛先はロヒンギャに向かう。
またしてもバングラデシュの解放戦争の間、何十万人ものベンガル人がアラカンに入ってきたという主張がある。ウー・キン・マウン・ソーはつぎのように書いている。
第2章で述べたように、1971年、東パキスタンで独立戦争が勃発した、150万人から200万人のベンガル人難民がアラカンに発生したとき、ネ・ウィン政権の賢明でない管理によって、いわゆるロヒンギャ問題が拡大した。[実際、ウー・ネ・ウィンはロヒンギャ迫害と虐殺の黒幕であり、長い間の立役者だった]
実際、今日ロヒンギャだと主張している人のほとんどは、バングラデシュ解放戦争がおこなわれ、それによってのちに不法移民がもたらされる1971年に、越境してビルマ内に定住した人々の子孫である。その証拠は、この集団の人々がビルマ内で話されるいかなる言語も話せないという事実のなかにある。(UKMS 2016)
何というとんでもない言いがかりだろうか。1973年の人口調査によるとアラカンの総人口は170万人にすぎない。200万人の不法移民ベンガル人が、どうやったらすでに定住している住民のなかに住むことができるだろうか。1983年の調査でも、210万人である。上記の200万人の不法移民の侵入者という非難は、ひどく悪意に満ちた虚偽である。どうやってこの不法な数百万の人々は、2016、17年の大量出国までミャンマー市民として生きるための公的文書を得ることができていたのだろうか。どうしてナ・サ・カは六か月ごとのチェックと確認によってこうした侵入者を見つけることができなかったのだろうか。まっとうな神経の持ち主なら、このような批判はできないのではないだろうか。
そこは自由反乱エリアだった。軍隊、警察、税関、イミグレ、これらはしっかりと配置されていた。みな任務に就いていたのだ。戦争中に国境を越えるものは適切に登録され、キャンプに収容された。彼らの人口は数千人である。戦争が終わると、難民は送り返された。ミャンマー政府は彼らを歓迎し、再定住させ、ミャンマー市民であることを認める文書を発行しただろうか。不法な侵入者たちはどこに定住したのだろうか。ビルマはなぜ彼らにそんなにやさしくミャンマー市民権カードを付与したのだろうか。
百万人から二百万人の不法滞在のベンガル人はマウンドーに住むイスラム教徒より数が多いことになる。政府が有名無実というわけでもないのに、この多人数のベンガル人がマウンドーのイスラム教徒の共同体に混じり、溶け込むなんていうのは、非論理的であり、現実的ではない。現実は、土着のロヒンギャを除外するために捏造した、非論理的で、根拠のない言いがかりに過ぎなかったのである。ラカイン人、とくにごく最近マウンドーのウー・キン・マウン・ソーによって告発されたように、何百万人もの不法ベンガル人の新しい定住者など我々はひとりも見ていない。その人口は現存するマウンドーの土着のロヒンギャより多いのだ。マウンドーにいるイスラム教徒の数は40万人ほどのはずなのに。この告発は非論理的で、現実的ではない。
この攻撃的な人々は、アラカンの国境をアメリカとメキシコの国境と比較しようとする。アラカンはアメリカではない。世界でもっとも産業の発達した国ではない。どんな理由でベンガル人がLDC(後発開発途上国)の国ミャンマーの下から二番目に貧しい州、ラカイン州に来るのか。事実は、テインセイン大統領と移民担当大臣ウー・キン・イが外国のメディアに語ったように、何か月もチェックしたが、不法滞在者を見つけることができなかったのである。(彼らのインタビューを収めたビデオクリップ 2019)
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