(11)ロヒンギャはラカイン人やミャンマー人とみなすには文化的に違いすぎるというのは合理的?
ロヒンギャの文化はラカイン人の文化と違う、という主張がある。名前や言語が違うどころか、一般的なビルマ人ムスリムとも違っているのである。重要な点は、ラカイン人と違っていることは、犯罪ではないことだ。それを犯罪と考えること、ロヒンギャから権利を奪い去るという思い付きを抱き続けること、それらは人種差別にすぎない。すべての人々は、敬意を表すべき自身の文化や言語を保存する権利を持っている。これに関しては最高裁判所の判決もある。もちろん海外移民は古いものを捨て、選んだ新しい土地の文化を選ばなければならないという理論的解釈がある。
しかしロヒンギャは海外移民ではない。すでに述べたように、彼らは歴史の最初からそこにいるのである。現在のミャンマーの法という法的観点から見ると、ロヒンギャはラカイン人と同種であるとして縛られる必要はない。ミャンマーの法は、誰にも他の文化を採用せよとは言っていないからだ。いわゆるアラカンの8つの民族はラカイン語を話さず、ロヒンギャと似たようなものである。彼らはみな自身の言語と文化を持っている。だから言語と文化の同化が市民権を得るための基準とはならない。
ロヒンギャが居住する地域は、何世紀もの間文化的に独立していた。ビルマ人のまっただなかで暮らすミャンマー・イスラム教徒の環境とはまったく異なっていた。彼らはごく自然にミャンマー語が第一言語になっていた。ミャンマー・ムスリムはいくつもの異なる民族から成っていた。彼らのほとんどはビルマ系混血だった。アラカンの語源を研究すると、ラカイン・ピ[訳注:ピは国。ピドで国家]であったことはないことがわかる。ラカイン・ピになったのは1974年以降である。英植民地以前は、そこにはコスモポリタンで、多重文化の社会があった。独立前、元ミャンマー国家評議会のメンバーだったウー・ラ・トゥン・プルやラカイン人エリートらによるアラカニスタン(アラカン国)運動があった。(ウー・チョー・ウィン 1958―62)
アラカンはかつてアラカン人のための地域であったし、いまもそうである。もしそれがラカイン人だけの所有物であるなら、我々はそもそもの最初から、この地を放棄していただろう。文化を融合させながら、「国」であることを楽しむのは、覇権主義につながるものであり、人種差別的な愛国主義である。
ごく最近もパッシマ・ゾーンという雑誌の中でサン・シュウェ・マウンなる人物が、「ロヒンギャがどうやって市民権を与えられるというのか。彼らはラカイン語もミャンマー語も話せないというのに」と述べている。これは言い古された決まり文句みたいなものだ。ミャンマーの法律はこんなこと言っていない。対照的に、ミャンマーの最高裁判所は、ミャンマーのような国においては、すべての人がミャンマー語を話す必要があるわけではないという判決を出している。(ビルマ法令報告 1960参照)
もちろん一部のイスラム教徒は、民族間の結婚や居住地が近いことなどからラカイン語を話すことができる。そういうイスラム教徒はアラカンにおいてはわずかにすぎない。ときおり私たちはラカイン語がしゃべれる外国人の子孫を見つけることがある。彼、あるいは彼女は真正なアラカン人だろうか。独立まで、とくに北部のラカイン人の大半がバイリンガルであったことに留意しなければならない。ロヒンギャ語はアラカンの歴史を通じて支配的だったのだ。すなわちアラカンではそれはコミュニケーションの手段として用いられていたのだ。それはアラカンにおいて、またアラカン人にとって一般言語だった。(ライダー博士 2011)
ヒンドゥー教徒、ダインネ族、ブルワ族、そして一部の丘陵民族は一般的にやや異なるアクセントの(チッタゴン方言の)ロヒンギャ語を用いる。このようにラカイン人はロヒンギャ語を学び、話すしか選択肢はない。(ウー・ラ・トゥン・プル 1984)
こうして北部のラカイン人の大半はバイリンガルである。
上述のように、ムラウー朝時代、ロヒンギャは特権共同体だった。彼らはけっしてラカイン語を話すよう強いられたわけではなかった。対照的に、ラカイン人はロヒンギャ語を話した。一般民だけでなく、支配者階級もまたロヒンギャ語をよく話していた。J・ライダーはつぎのように述べている。「宮廷人が心に抱き、行動することを、文芸文化として、もっともわかりやすく描いたものを供給してくれたのが、ベンガル語(ロヒンギャ語のもと)の文学だった」。(J・ライダー参照)
ティリ・トゥダンマ国王は修道士マンリケとインドの言語で会話をした。(モーリス・コリンズ参照)
ラカイン王たちはその言語を好んだだけでなく、イスラム教徒の名前を付けた。ムラウー朝の公式宮廷言語はベンガル語とペルシア語だった。それらはロヒンギャにとっての書簡用の書記言語でもあった。(ライダー 2011)
二十人近くのラカイン国王がイスラム名を持っていた。このような歴史の背景がありながら、我々はどうやってロヒンギャがラカイン語を話し、ラカイン人の名を付けることを期待するだろうか。今日でも、ミャンマーの少数民族のなかでも、少なからぬ人々が正しいミャンマー語を話すことができない。それでもロヒンギャを含む多くの少数民族は彼ら自身の文化の中で生きていく権利を持っている。
もしロヒンギャが緑の牧草地を求めてアラカンにやってきたのなら、ラカインの言葉と文化を取り入れようとしていただろう。定住した先住民の言語を選んだことだろう。この採択によって社会的、経済的な安心感は得られただろう。しかしアラカンで起きていることは逆だった。ロヒンギャこそが定住している土着の人々であり、ラカイン人は遅れて10世紀にやってきて、支配者になった人々だった。
遅れてやってきた者たちは、日常的なコミュニケーションのために、土着の言葉を学び、取り入れるしかなかった。だからロヒンギャがラカイン語を話さないこと、ラカイン人の名前を持たないことには、歴史的な背景があったのだ。たとえばガサパダディ川はあとから来た人々によってカラダン川という名に変えられた。この川の流域にはカラー(ムスリム)が住んでいた。政治的、社会的な状況があるにせよ、深く根付いた文化というのは一夜にして消えていくものではない。ロヒンギャ独自の文化が、真正の土着ではなく外国人の文化とするために利用されるべきではない。
これは留意すべき点だが、アラカンはときおり政治的にベンガルに対し支配的であることもあったが、ベンガル文化はより強大で、アラカンに広く影響力を及ぼしてきたことである。この影響力によってロヒンギャは何世紀にもわたって自主的に独自の文化や言語を維持してきた。私たちはミャンマーの国境地帯に類似した、明確な民族的、文化的現象を見ることができる。
ここでまた作家のサン・シュウェ・マウンの言葉を引用しよう。「何世代にもわたってミャンマーに居住することは、市民権を得るための基準ではない。土着の人々であるかどうかの問題だ」。彼はそれが国際的な標準であり、基準だと述べる。実際、それは間違った解釈である。それはサン・シュウェ・マウンや彼のような人々の人種的傾向といってもいい。国際的には、生まれた場所が市民権の基準である。アジアの国々はそうである。(パッシマ・ゾーン・マガジン 2012)
おなじことが何世紀にもわたってバングラデシュに住んできたロヒンギャにもいえる。彼らは今もなお言語と文化を保持している。しかし彼らは完全にバングラデシュの市民である。ミャンマーの法では言語ではなく、永住の地の居住期間が重要であり、先祖の地がどこであるかは、先住といえるかどうかの問題である。
アラカンにおけるイスラム教徒の文化的影響は深いものがある。ラカイン人王たちはイスラムの名前を持っていた。15世紀の国王バ・ソー・プル、あるいはカリマ・シャーの宮廷詩人の名はアブドゥ・ミン・ニョーだった。ラカインの財務官吏はダバイン(デーワン)と呼ばれた。ラカインの港湾官吏はシャー・バンダルと呼ばれた。役人の地位やファイルの名はペルシア語だった。アラカンの海軍艦隊はイスラム教の名で呼ばれた。たとえばグーラブ、ジャンギ、ザルバ―、カルー、コーサ、バラムなど。(カヌンゴ参照)
結局、ラカインとチッタゴンは、何世紀もの間、おなじ統治のもとにあったのだ。それゆえ人口の変動があり、文化的混合があった。
ボードー・パヤーによって捉えられたラカイン砲術隊の武器もイスラム教の名前を持ち、それらはペルシア語で碑文に刻まれている。(パメラ参照)
アラカンのムスリム、あるいはロヒンギャの場合、現時点で支配的なラカイン人との文化的同化が市民権を得るための基準となるべきではない。上記の背景から考えると、この件に関しては、いろいろと差し引いて考えなければならない。地史的観点から見ると、アラカンはロヒンギャの故郷である。彼らはラカインの地に来たわけではなかった。ラカイン人が10世紀に彼らの地を征服し、それ以来そこで支配者の地位を保っているのである。
なぜ我々はムラウー朝がムスリムの力添えによってできた王朝であることを忘れてしまったのだろうか。ムスリムはネイティブで、特権階級だった。しかし我々の運命に対して何という皮肉か、パッシマ・ゾーン・マガジンの作家たちはムスリムを不法にラカイン人の地に侵入してきた外国人として描こうとする。彼らはムスリムを黒い津波にたとえる。これは人種差別以外の何物でもないだろう。何十年にも及ぶ人種の迫害にもかかわらず、大量の難民が発生してきた。2016年以来、百万人近くの難民が発生してきた。
15世紀から16世紀にかけて、アラカンはイスラム世界からダイナミックな文化の影響を受ける受容体だった。ベンガルに近いこともあり、ムラウー朝の支配者たちはイスラム教に依存していた。仏教の建築物にさえ、イスラム教の影響が見られるほどだった。(パメラ 2001)
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