インダス文明はその一部にすぎなかった
超古代サラスヴァティー文明
デーヴィッド・フローリー(David Frawley)著
(原題 The Myth of the Aryan Invasion
of India)
《そろそろ古代史を書き改める時が来ようとしている》
宮本神酒男
2008年夏、インド北部ヒマチャル・プラデシュ州のクル(Kullu)の友人宅に滞在しているとき、たまたま町中の庶民的な家を訪ねる機会があった。ソファに老人が横たわっていた。かつて発せられていた輝きは感じられなかったが、その眼光はときおり鋭く光った。私を連れて行ったチベット系インド人の友人は「このかたは93歳の歴史家タコール・サムーセンさんだ。サラスヴァティー文明説を最初に提唱した歴史家のひとりなのだ。サラスヴァティー文明ということばをあなたは知らないかもしれないが」と説明した。私はデーヴィッド・フローリーの本を読みサラスヴァティー文明について興味をもちはじめたばかりだったので、この偶然には驚かずにいられなかった。インドで歴史家の家を訪ねるなんて、めったにあることではないのに、さらにその歴史家がサラスヴァティー文明の提唱者だったとは。
かつてこの歴史家が新説を唱え始めたとき、残念ながらインド国内ではほとんど反響がなかった。インドでは西欧の学者の発言は重く受け止められるが、国内の学者の意見はそれがどんなものであれ軽く見られる傾向にある。サラスヴァティー文明論も、フローリーら欧米の古代インド学の権威が唱えるようになって、はじめて論議の対象となるようになった。しかしそれでもまだ欧米のアカデミズムは慎重な立場を崩さず、いまだ異端説にとどまってはいるのだが。たとえばジェフリー・サミュエルは「(リグ・ヴェーダ成立を紀元前4000年とするような)見方を受け入れるなら、世界の歴史と人間の文化の過程について、革新的な、信じがたい再考をしなければならなくなる」と述べている。(Geoffrey Samuel 2008)
しかし革新的であって何が悪いのだろうか?何を恐れているのだろうか? サラスヴァティー文明を認めると、科学史におけるコペルニクス的転回のように、古代史ががらりと変わってしまうのだろうか。
古代の世界四大文明といえば、いうまでもまくエジプト文明、メソポタミア文明、黄河文明、そしてインダス文明である。しかしインド人にとってインダス文明は、中国人が黄河文明を誇りにするようには誇りにすることができない。なぜなら、インダス文明は彼らアーリア人が侵入する前に先住民、おそらくドラヴィダ人が造り出したものであり、彼らはむしろ文明の破壊者だと言われてきたからだ。
紀元前3100年頃から1900年頃にかけて先住民、おそらくドラヴィダ人によって、インダス川流域のハラッパー、モヘンジョダロを中心とする地域に高度な都市文明が栄えてきた。しかしインダス文明は次第に衰退していき、紀元前1500年頃、中央アジアから侵入してきた遊牧系のアーリア人によって完全に滅ぼされてしまう。これを「アーリア人侵入説」(M・ウィーラーらが提唱)という。
欧米の学者がこの説を支持してきたのは、紀元前1600年頃からアナトリア半島に勢力を伸ばした、鉄をもつことでも知られる好戦的なインド・ヨーロッパ語族のヒッタイトのイメージが強かったからだろう。またクシャン王朝やムガール帝国など、インドの支配者はつねに中央アジアからやってきていた。アーリア人もまた中央アジアから移動してきてインドを征服したにちがいない、と考えるのももっともなことだった。
しかしこの「アーリア人侵入説」は、考古学的発掘などからしだいに成り立ちがたくなってきた。インダス川流域から発見された人骨には、戦争や侵略を示すと思われる痕跡はなにひとつないからだ。むしろ気候の大変動によって乾燥化、砂漠化が進み、人々がこの地を放棄したように見える。
1980年代後半、この本の著者デーヴィッド・フローリーら複数の学者がまったく新しいモデルを提出する。いわゆるインダス・サラスヴァティー文明である。ここでは短くサラスヴァティー文明と呼びたい。
インドでもっとも古くに書かれた聖典ヴェーダには、七つの川が登場する。七つのうち六つの川は現在の川に同定されうるが、サラスヴァティー川だけは伝説的な、おそらく天の川をあらわす実在しない川と考えられてきた。しかし衛星写真などから、インダス川に沿ったその東側、タール砂漠に、かつて存在したが干上がってしまった川が流れていたことがわかってきた。さらにはその消えた川の流域から300以上の遺跡が発見されたのだ。フローリーらは、古代インドの文明の中心地はインダス川というよりむしろこのサラスヴァティー川流域だったのではないかと提唱した。
そうするとインダス文明(サラスヴァティー文明)を築いた人々はドラヴィダ人ではなく、アーリア人ということになる。彼らは中央アジアからやってきて侵略したのではなく、最初からそこにいたのである。しかしサラスヴァティー川が干上がり、環境が悪化したため、何百年かのあいだにガンジス川へ移動していく。ヴェーダをかかげるガンジス文明の人々とインダス文明(サラスヴァティー文明)の人々は同一であり、少なくとも六千年にわたって途切れることなく続いた偉大な文明ということになる。ヴェーダのなかに描かれる星座は六千年前の天空を示していた。
そもそも貴いとか、純粋なといった意味のアーリアということばを人種に適用してしまったことが間違いだったとフローリーは指摘する。古代の文献ではドラヴィダ人さえ自らをアーリアンと呼んでいた。インド亜大陸を侵略した「金髪碧眼、白い肌のコーカソイド」のアーリア人は、植民地時代の大英帝国の学者たちが考え出した都合のいい神話にすぎなかったのだ。
フローリーは一歩進んで、大胆にも、古代のヴェーダをかかげた人々はメソポタミアまで進出していたと推測する。紀元前1500年頃、ヒッタイトとミタンニのあいだで結ばれた条約の記された石碑が半世紀前、中東で発見された。碑文にはミトラ、ヴァルナ、インドラといったインドの神々の名前が含まれていた。かつての学者たちはそれを「アーリア人侵入説」の証拠のひとつと見たわけだが、フローリーはむしろサラスヴァティー文明の勢力が中東にまで及んでいたことを示す証拠とみなしている。また現在のバーレーンからも古代インドとのつながりを示す遺構が発見されている。フローリーに言わせればサラスヴァティー文明の人々は優れた海洋民族であり、植民化したバーレーンを拠点として活発に交易を行っていた。
サラスヴァティー文明の人々はエジプト人のようにピラミッドを建設することはなかったが、いわば「精神のピラミッド」とでもいえる巨大な精神文明を築いたとフローリーは主張する。数千年にわたって築き上げられてきた精神のピラミッドがあるからこそ、いまもわれわれの知るスピリチュアルなインドがあるのだ。「サラスヴァティー文明」は高度なテクノロジーの文明というより、高度な古代の精神文明なのである。
フローリーがこの著書で述べていないことをひとつ補足したい。最近、染色体(Y染色体とミトコンドリア染色体)を分析するという科学的な方法でアーリア人侵入説が補強されている。
分析からコーカソイド人種がやってきて、土着の女性と婚姻を結ぶケースが非常に多かったことがうかがえる。科学的分析によって侵入説が証明されたかのようである。しかし落ち着いて考えれば当然のことだが、それがいつごろ起きたのか、染色体分析はなにも物語らない。またヨーロッパ人(どこの国?)だけでなく、イラン人やアフガン人(パシュトゥン人)、パキスタン北部の人々(たとえばダルド人)も調べるべきだが、それをせず大学の研究チームは満足している。アーリア人侵入説に反するデータが出てくるのを恐れているのだろうか。アーリア人侵入説が潰えて、フローリーらの説が有力となった場合、古代史(インドだけでなく、世界の古代史)を全面的に書き換えなければならなくなるだろう。
私が知るかぎり、日本ではサラスヴァティー文明はほとんど知られていない。とはいえじつはポピュラーなグラハム・ハンコック著『神々の世界』(大地舜訳 小学館)がかなりのページをさき、紹介していた。ハンコックはサラスヴァティー文明説の概要について述べたあと、グレゴリー・ポッセールの『インダス時代』から「アーリア人侵入説の死亡記事」を引用する。
結局のところ今日では、インド=ヨーロッパ語を話し、アーリア的つまりインド=ヨーロッパ的な文化のまとまった、あるいははっきりした特徴を持っていたアーリア人という民族が、かつて一度でも存在したと信ずべき理由はない。
ハンコックはじつに的確にこの問題をとらえているのだが、同著の当該章が「インドのアトランティス」となっていて、眉唾的なイメージ(ムーとかアトランティスにアカデミックなイメージはないだろう)を読者に与えてしまったきらいがないともいえない。ハンコックが執心しているインド西部マハーバリブラムの海底遺跡は、これも歴史を塗り替える大変な発見の可能性があるが、それ以上にサラスヴァティー文明説は「目からウロコが落ちた」と思わせるような画期的な新説なのである。
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