23 先住民族文化としてのインダス文明

 あらゆる文明は中東に発するという思い込みから、ハラッパー文化も中東、おそらくシュメールから来たと考えられてきた。しかし最近のフランス隊によるパキスタン・ボーラン峠近くのメヘルガル(Mehrgarh)遺跡の発掘によって、インドの先行文化は少なくとも紀元前6500年前まで遡れることがわかった。メヘルガルは当時としては世界最大の村・町の文化を誇り、さまざまな段階を経てインダス文化へと発展していった。農業、芸術、工芸などハラッパー文化に典型的な要素が進化した。

 簡潔に言えば、西欧の学者たちはアーリア人侵入説やヒンドゥー文化の起源を外に求めることを拒絶しはじめたのである。

<最新のいかなる考古学データも、先史時代、南アジアにインド・アーリア人の侵攻があったということを示していない。そのかわり先史時代から有史時代にかけて文化の連続性があったことを物語っているのだ。

 18、19世紀の学術的な概念としてのインド・アーリア人侵入は当時の文化の雰囲気を反映したものだった。言語学によって侵入論が作られ、それによって考古学や人類学が解釈された>(J・シェイファー)

 アーリア人侵入論は言語学的仮説のたまものであり、考古学のデータもそれによってねじまげられてきた。考古学データを仮説に合致するように使うべきではないし、時期も都合よく変えるべきではない。文書データ、すなわちヴェーダをそうすべきでないように。アーリア人の原郷をヨーロッパや中央アジアに求める学者たちがいまなおいるが、彼らでさえ紀元前4000年から6000年、あるいはハラッパー文化の開始以前、インド・アーリア人がインドに入るのに十分早い時期を考えるようになってきた。

 コリン・レンフルーはインド・ヨーロッパ語族のギリシア到達を紀元前6000年とみた。彼はまたインドに到達したのもそのような早い時期ではないかと考えた。

<私が見る限りリグ・ヴェーダの賛歌にはその書き手が彼らの地域に攻めてきたという様子は感じられない。むしろそう感じさせたのは長い間「インド・ヨーロッパ語族の侵入」という思い込みがあったからだ。

 ウィーラーが「七つの大河、すなわちパンジャブへのアーリア人侵略」と言うとき、じつは彼自身確証を持っていたわけではなかった。もしリグ・ヴェーダをチェックすればわかるのだが、何十ヶ所も七つの大河について言及されているが、侵略のようなものはまったく出て来ないのだ。七つの大河とはリグ・ヴェーダの表舞台であり、主戦場のはずなのだが。

 ウィーラーが何と言おうと、インダス文明が非アーリア人のものかどうか、まだだれも証明していないのだ。>

  レンフルーは、インダス文明はインド・アーリア人によるものと示唆し、さらにつぎのように述べる。

<紀元前6千年期、北インド、パキスタン、イラン高原でインド・ヨーロッパ語が話されていたという仮説は、インド・ヨーロッパ語族の起源をヨーロッパとする仮説ともうまく合致する。それはまたインダス川流域や近隣地域において新石器時代からインダス文明繚乱期を通じて連続性があるともいえる。>

 付け加えるなら、このことはリグ・ヴェーダがハラッパー文化の時代だということにはならない。ハラッパー文化はヤジュル・ヴェーダやブラーフマナ、あるいは後期ヴェーダ時代と同時代なのだ。リグ・ヴェーダがインダス文明以前の要素を含んでいるなら、それはサラスヴァティー川がより存在感を持っていたことを反映しているだろう。


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