24 新しいモデル
アーリア人侵入説が崩れ、紀元前6500年のメヘルガル遺跡以来古代インドでは土着の人々の文化が発展してきたという説がそれにとってかわるようになった。この土着の人々は現在の民族、すなわちインド・ヨーロッパ語族とドラヴィダ人だった。動物、とりわけ牛の家畜化、大麦、ついで小麦、米などを育てる農業開発、銅や鉄など金属の使用などによって村や町が発展してきた。紀元前3100年から1900年にかけての後期ハラッパー(サラスヴァティー)文明には巨大な都市、複雑な農業体系、冶金技術、芸術や工芸の洗練、度量衡の正確さなどがみられた。サラスヴァティー文明は交易の中心地であり、南アジアや西アジアの文明の要衝だった。それはまたメソポタミアをしばしば支配したほどだった。
ハラッパー文明後の紀元前1900年から1000年、ハラッパーの町の放棄が見られるが、それは環境の変化、川の流れの変更によってもたらされたものであり、文化の継続性が認められる。ドワールカの遺跡からもわかるように、文化の拡散や場所変えがあるものの、農業や芸術の面ではつながっているのだ。紀元前千年期にはガンジス文明へと移っていく。しかしその起源がサラスヴァティー文明にあることは、ヴェーダに詳しいのだ。
ヴェーダ文学はいくつかの層に分けられる。
1 紀元前6500年―3100年 ハラッパー以前 リグ・ヴェーダ初期
2 紀元前3100年−1900年 ハラッパー成熟期 4つのヴェーダ
3 紀元前1900−1000年 後期ハラッパー文化 後期ヴェーダ ヴェーダとブラフマンの時代
ヴェーダ文学の発展とインドへの人々の移住はパラレルな関係にあるわけではない。それはサラスヴァティー川からガンジス川にかけての文明の発展を反映しているのだ。