26 アーリア人侵入説の政治的、社会的な意味合い

 最後に、アーリア人侵入説の考え方に含まれる社会的、政治的な意味合いを検証することは重要だろう。

 はじめに、北部のアーリア人と南部のドラヴィダ人に区分したことにより、両者のあいだに敵意が生まれたことをあげたい。これによってヒンドゥー教徒が割れ、いまも社会的な不安定要素である。科学的な裏づけがないにもかかわらず、アーリア人とドラヴィダ人という二大民族があるかのようなイメージが創り出された。

 つぎに、この考え方が英国人にインド征服の言い訳を与えてしまった。ヒンドゥーの祖先が何千年も前に行ったのとおなじことをしているのだと主張することができた。おなじことをムスリムやその他の侵略者にも言えるのだが。

 第三に、その考え方によってヴェーダ文化は中東の文化よりも新しいということになってしまった。それによってインドの古代文化はばらばらになり、ハラッパー文化もミステリアスに消えてしまった。まるでインドに発展などなかったかのように。聖書やキリスト教と中東の文化が近接し、関係があることから、ヒンドゥー教には西欧の宗教や文明に当てられる側光のような役目が与えられた。

 第四に、インドの科学の基礎にギリシアの科学を置いた。ヴェーダにはたとえば天文学という科学の基礎があるにもかかわらず、その遅れた部分をのみ強調し、ヴェーダの価値を下げてしまった。ヴェーダの高度な数学や天文学的データは無視された。このことによってインド文化はギリシアやヨーロッパ文化の下位に置かれた。

 第五に、マルクス主義者に階級闘争のモデルを与えた。侵略するバラモンが土着の低カースト、シュードラを抑圧するという構造である。今日もなお被抑圧階級のあいだでは、侵略説は生きている。バラモンはもともとインドを侵略し、征服し、土着の人々を隷属させ、シュードラ階級としたのである。

 アーリア人侵入説はヴェーダだけでなく、信用性がないとして、プラーナの王統やブッダ、クリシュナ以前の王の長いリストの価値を損ねた。それはヴェーダ以前とか、非アーリア人とか言い出す始末である。マハーバーラタの戦いもインドの諸王が参加した大きな内戦であるのに、詩人によって誇張された小国の小競り合いですませようとした。つまり侵入説はすべてのヒンドゥー文化、古代文学を貶めたのである。聖典や賢者は誇張とファンタジーとみなされた。

 社会的、政治的、経済的統治を進めるのに、この仮説は役立った。西欧の文化、宗教、政治システムはすぐれているとし、仮設は援用された。ヒンドゥー教徒自身彼らの文化は賢者や祖先が言ったほどには偉大ではないと感じるようになった。
 彼らの文化を恥ずかしいとさえ思った。歴史からでも科学からでもなく、印象からそう考えたのである。実際侵略と抑圧からそういった考え方が生まれてきたのだが。文明の主流は中東に発し、ついでヨーロッパ、それからインドという固定観念を生み出していた。インド文化は辺縁にあり、世界の文化からは落伍していたという印象を持ったのである。それはよい学問でも考古学的証拠でもなく、文化の帝国主義だった。
 西欧の学者は大英帝国の軍隊が政治の世界で行ったのとおなじことを、アカデミズムの世界で行った。すなわち、ヒンドゥー教徒の貶め、分割、そして制圧である。

 不幸なことに、侵略説に立ち向かう人々は、サラスヴァティー川発見というような考古学の堅固な部分においても、まさにそれを政治的に利用しようという人々、たとえばマルクス主義者から、政治的な動機で非難されてきた。アーリア人侵入説を否定する人々はコミューン主義者とさえ言われた。インドの大半の人々に誇りをもたらすものなのに。

 一言でいうと、アーリア人侵入説を促進したのは文学でも考古学でもなく、政治や宗教だった。つまり学問ではなく偏見だった。そのような偏見は意図されたものではなく、もっと根深いところにあり、われわれの思考を曇らせてきた。
 いまわれわれはようやく世界の偏見について見直しをはじめたところである。グローバルの時代には必要不可欠なことである。19世紀の歴史観にバイアスがかかり、科学や政治が時代遅れだったとしても驚くことではない。

 古代史のまちがった解釈、そのあとにやってくる真価回復への動き。世界の考古学の最近の発展はそうした傾向を反映している。現地の人々が重要な役目を担ってきたことが大きいだろう。中東以外の地域の古代文化を認識できなかったことが、ヴェーダのまちがった解釈につながった。インドだけでなく世界のほかの文化に関してもそういった本当の姿が発見されるだろう。

 不幸なことに、アーリア人侵入説という欧米中心主義のアプローチはとりわけインド人に不問に付されてきた。奇妙なことに反植民地主義をかかげるマルクス主義者でさえこの植民地主義的なアイデアに固執してきた。ダヤナンダ・サラスヴァティーやティラク、オーロビンドらインドのヴェーダ学者は否定したが、大半のインド人はこの説を消極敵ながら受け入れてきた。西欧のキリスト教徒による歴史解釈をありがたく頂戴し、ヒンドゥー教の主張は主流にはならなかった。
 彼らはいまだにマックス・ミュラーやグリフィス、モニア・ウィリアムス、H・H・ウィルソンら19世紀の「宣教師」学者によってなされたヴェーダの翻訳を受け入れ、読み、尊敬さえしているのだ。現代のキリスト教徒が、ヒンドゥー教徒によって翻訳された聖書や聖書の基づく歴史を受け入れることができるだろうか? インドの大学では西欧の歴史本やヴェーダの翻訳を使っているが、それらは彼ら自身の文化や国を中傷している。

 現代の西欧のアカデミズムは文化的、社会的なバイアスのかかった批評に関して神経質である。ヴェーダのバイアスのかかった解釈にたいして抵抗することにより、ほかの多くの歴史事項をも再検討せざるをえなくなるのだ。それらは客観的な検証に耐え切れなのに。
 もしインドの学者が黙したままでまちがった解釈を受け入れるなら、その状況はいつまでもつづくだろう。その責任は彼ら自身にある。このことを軽く考えるべきではない。文化にたいする見方はそうして作られ、現代の社会的、知的な流れのなかでイメージが固定されるのだから。忍耐というのは自身の文化や宗教にたいする間違った見方が広まることに発揮されるべきではない。それはたんに自己への裏切りである。

(第1部終了)

⇒ 第2部
⇒ INDEX