歴代ダライラマの秘密の生涯 

アレクサンダー・ノーマン 宮本神酒男訳    参考:ダライラマ六世の秘められた生涯  

                                 

20 スキャンダラスな六世 

 偉大なる五世が死の床で遺した勅令のひとつは悲惨な結末をもたらすことになった。彼は自身の死を秘匿するよう告げたのである。摂政(デシ)によると、五世はこの隠蔽をいつまでつづけるか期限を設けなかった。他の主張によれば12年の期限を設けていたという。彼らによれば、そうしなければダライラマ六世にもデシ自身にも災難になってしまうと考えられた。

 五世は生きているという虚構をデシが守りつづけることについて、ロブサン・ギャツォ(五世)自身がなぜ慎重になっていたのか、想像にかたくない。グシ・ハーンの死のあとにすぐ反乱が勃発した記憶がまだ生々しく残っていたのだ。まもなく六世が発見されるだろうが、国のかじ取りが取れるようになるまでには多大な年月を要しそうだった。そしてデシ(摂政)サンギェ・ギャツォはリーダーにふさわしい実務的な人物ではあったが、ダライラマが身に帯びているような威光は持っていなかった。五世の威光は生涯の長きにわたるチェンレシグ(観音)信仰のたまものでもあった。尊い守護者の寂滅のニュースよりも、ダライラマ法王が重篤の病気から回復し、無期限の隠棲生活に入ったことを民に知らしめるほうがいいとデシは考えたのだった。

 この陰謀をまっとうするために、彼はナムギェル寺から五世にそっくりの僧侶を見つけ出した。この僧侶はダライラマの私的エリアに幽閉されることになった。重要な訪問者があり、謁見せざるを得ない場合、通常どおりの丁寧な儀礼をおこない、嘆願者を受け入れて祝福を与えた。そのほかの時間は、この不幸なニセモノは引きこもり、経を読んだり、太鼓やシンバルをたたいたり、瞑想を装ったりして過ごした。ときには反抗を示すこともあったが、飴と鞭で彼は偽ダライラマの職にありつづけたのである。

 いかにうまく、正確に言えばどれだけ長く秘密が保たれたかは、さまざまな推論がなされてきた。五世は1696年に逝去した。しかし康熙帝は1696年までそのことを知らされなかった。しかもその時点でさえ正式に宣布されたわけではなかった。一方、多くの人が疑いを抱くようになっていたのはあきらかだった。新しい名前をもらうために謁見が許された五世のニンマ派の家庭教師の若い転生はダライラマがどのようであったか聞かれた。転生の少年が証言するには、ダライラマは特別な帽子をかぶり、眼帯をつけていたという。五世ロブサン・ギャツォは、頭がほとんど禿げ上がっていて、大きな飛び出るような目をしていることで知られていた。これらの特徴と合致しなかったことから、その男が影武者であると推断せざるをえなかった。

 デシはといえば、その間、国家の事実上のトップに任命されたことに大いなる喜びを感じていた。輝かしい学者としてすでに認められていた彼は、偉大なる前任者にならって公的な仕事をこなし、その時代の文化的な生活のために積極的に貢献した。国事に関する限り彼はまめに職を遂行し、さまざまな仕事場に何も告げずに現れた。会合のときには彼のために席が用意されるのが慣例になった。都で人々が言っていること、していることのすべてを知るため、彼は変装して町の遠くまで出かけて行った。*彼は頭にかぶったものの形から「平頭」(ゴレブ)というあだ名がつけられた。

 彼のお忍びの視察はほどなく悪名高くなった。人々は自分の考えを人前でしゃべるのをいやがるようになった。あるときデシはたまたま出会った酔っ払いに朝廷についてたずねた。

「わしの仕事は飲むことでさ」と酔っ払いはこたえた。「ほかのことは全部デシさまがやってくださるんで」

 デシは学者で、文学者で、政治家でもあったが、なんといっても行動する男だった。彼は毎年正月に開かれるモンラム・チェンモ(大祈祷会)のとき、弓矢の競技会に参加した。それは平民の祝祭であり娯楽だった。報告によると、デシ以上に弓を飛ばすことのできた者はいなかったという。そしてデシのサンギェ・ギャツォは、苦手であることが知られているコンテストにおいてさえ、結局は優勝することができた。正妻を決めづらかったときには、彼は寺院の「具足戒」を返上し、公式に妻をふたり持った。それに加えてラサの貴婦人たちや地方から来た婦人たちのうち、彼と寝床をともにしなかった者はなかったといわれる。

 デシの第一の任務は言うまでもなく新しいダライラマを見つけることだった。それには彼が見たいくつかのディテールのはっきりした夢と(ガドンなどの)オラクル(神託)の協力が役に立っていた。これらのすべてがはっきりと強く、新しい転生はチベットの南部で探すべきだということを示していた。デシはそれゆえ二人の信頼できる僧官を任命し、そのエリアの大きな寺院に送ってそのことについて調べさせた。もっとも、ダライラマの転生を探しているとは言えないので、つい最近亡くなった二人のラマの転生を探していることにした。この調査によって将来有望な才能を見出すよう命じた。

 彼らが探している少年は、ロブサン・ギャツォが死んでから一年と六日後、「水・ブタ」の年(1683年)の三月一日に生まれた。彼の父は、ペマリンパ(14501520)の系統に属する結婚したニンマ派のラマだった。ペマリンパはウーセルと同様、尊敬される埋蔵宝典発掘師(テルマ)であるニンマ派の聖人だった。男の子の母親は家督を継いだわけではなかったが、貴族の出だった。家督どころか、土地をめぐる争いが絶えなかった。結果として家族は貧しくなり、利便がいいとはいいがたいブータンとの国境上にあるウルギェン・リンに暮らしていた。

 はじめに知らされたのは、この子供は生後三日たっても母親の乳を吸わないなど、並みではなかったことだ。それはこの子がおなかをすかしていたからではないかと考えられた。祖父もまたこの赤子はつねに天界のものに囲まれ、守られていると話していたという。そして幼少の時期にこの子供は原因不明の病気に苦しめられた。彼の顔は膨れ上がり、目を開けることができなかった。一般的に信じられているのは、守護神ドルジェ・ダクデンの庇護のおかげで彼は回復することができたということである。こうした驚くべき現象がつづいた結果、この子は特別な存在かもしれないと多くの人が感じ始めた。ドゥクパ・カギュ派の幹部たちもこの子供に興味をいだくようになった。しかし彼の父からすれば、不健全な興味のように思えてならなかった。この子を彼らから守るためにニンマ派の黒魔術の儀礼がおこなわれたという。しかし地元のゲルク派の僧侶たちもまた、子供の存在に気づき、ただちに子供を管理下に置き、ガンデン・ポダンの領地の最南端のシャウクの地元の政府の施設に移した。僧侶たちはこの男の子は当地の重要なラマの転生にちがいないと考えた。しかしその後男の子は、それらのラマとは違うと答えている。

 デシはこの子供のことを聞くやいなや、ヒマラヤ山脈北部のツォナにあるガンデン・ポダンの地区本部に移るよう命令を出した。ここで未来のダライラマは12年もの間、軟禁状態に置かれることになる。彼の状況は責任のあるふたりの地元の知事によって悪化することになった。母親が家族に対して起こした訴訟のなかで、彼らは母親とは対極の側についたのである。

 若き天才はこのようにして地元の醜い政治ゲームの優勝杯となった。これに加えてツォナそのものが、1920年代後半にその地を通過した英国の植物学者によって描かれた「汚くて、風が吹きすさぶ、人間が住むのに適さない百戸ばかりの村」という情景とほとんど変わらないみじめな地方だった。男の子と家族には食べ物がほとんどなかった。冬のさなかだというのに火もなかった。まるで「死の主の牢獄の穴」に閉じ込められているかのようだった。

 そもそも男の子がとくに尊い生まれであるということを示すものは何もなかった。デシが派遣した二人の調査係の官吏はまだこの地区に到着していなかったのだ。男の子の健康状態についての質問を記し、この子を丁重に扱うよう要望したダライラマ五世の印璽が押された書簡もまだ届いていなかった。この貧しくてみすぼらしい家庭から、高位ではないとはいえ、トゥルク、すなわち聖者の転生が輩出されるとは、彼らにはとうてい思えなかった。

 この見方が確認されたのは、デシが送った二人の調査係の官吏が1686年春、ツォナにようやく達したときのことだった。彼らは男の子と会うことができたが、この面会は完全な失敗だった。男の子はそのへんにいる凡庸な子供たちとはまったく異なっていた。またひどくとまどっているようにも見えた。調査係の官吏たちは五世の持ち物だった数珠を見せたが、男の子は何ら興味をしめさなかった。この男の子は有力な候補ではないと判断し、二人の官吏がこの地を去ったとしても驚くことではなかった。

 しかし大僧院であるサムイェー寺に着き、いくつかの占いを見ると、それらはこのウルギェン・リン出身の男の子こそが探していた本物の転生者であることを示していたのだ。ラサに戻り、二人の大僧正が病気になり、ツォナにおける調査が正しく行われていなかったことが彼らの夢の中で告げられることによって、サムイェー寺の占いが確かめられた。こうした経緯のすべてが滞りなくデシに報告された。彼自身の調査とも合致したので、デシは二人の官吏をツォナにふたたび派遣した。都から3週間かけて、彼らはツォナに到達すると、根気強く、男の子が転生であるかを確かめるべく再テストを行った。そして今回は男の子が転生者である可能性が高いという結論を得ることができた。

 第五の月の第五の日、二人の知事にあざけられ、バカにされながらも、ゾンにラマたちが集まり、守護神を祭る儀礼をおこなった。それぞれの日の儀礼の終わりに、彼らはダライラマの持ち物を混ぜたいくつかのものを少年に見せた。どの場合でも子供はダライラマの持ち物を見分けることができた。週の終わりまでに、儀礼用の短剣、パドマサンバヴァと二人の明妃の小像、「牛の乳房」と題された書、冠、ナイフ、呪術用の角、陶器の碗などを識別することができた。最終的に、五世の肖像画を見せられ、これはだれかとたずねられたとき、子供は自分を指しながら「それはぼくだ」と答えた。これで彼らが探している転生者がこの子であることは明白になった。そのとき「幸福と悲しみが一挙にやってきたかのように調査官たちの目から涙がとめどなく流れた」という。

 そのとき以来、調査官たちは少年の本当の身分を隠したものの、家族が置かれた状況は日増しにかなりよくなった。少年はある高位のラマの転生であると宣言するにとどまった。しかし家族の生活の物質面は改善されたとはいえ、まだまだ苦悩に満ちていた。彼らはおなじ二人の知事の監視のもと、ツォナの宿営所にとどめ置かれた。そして幼いダライラマはおなじ建物の中ではあったのだが、親から離されて暮らすことになった。その結果、親と子が会う機会はほとんどなくなってしまった。母親からすれば憤りを我慢するしかなかった。調査チームが去ったあとに残った二人の僧侶に彼女は自分の息子を引き渡さざるをえなかった。子供はまだ3歳だった。

 それゆえつぎの十年間、新しいダライラマは「最も手厚いもてなしと忘却のあいだ」に置かれて落ち着かなかった。彼を育てる責任者はデシ本人だった。彼は家庭教師を雇い、仏教経典の内容とその読み方を教えさせた。第二の家庭教師は1690年に指名された。彼は学者として少年がゲルク派の枠内で進歩しているかどうかを見た。また年に二度、少年が転生者であることを確認した二人のラマが派遣された。その目的は少年が順当に進歩しているかどうかをチェックするためだった。彼らは直接デシに報告した。

 その間、五世の転生が発見されたことはデシともっとも近しい者たちだけの秘密として守られた。秘密にされつづけた大きな理由のひとつは、紅宮の建設だった。紅宮はポタラ宮の白宮に沿って建てられた巨大な複合建築物だった。デシが考えるには、もし五世ロブサン・ギャツォの死の真実が知られてしまったら脅威になるはずだ。

 しかしより魅力的な理由はデシがかかわった外交の冒険のなかにあった。偉大なる五世(という呼び名で一般には知られるようになった)の存命中、清朝へのもう一つの大きな脅威はモンゴルの中心部から現れた。ガルダン汗は偉大なるチンギス汗の後継者を主張するモンゴル首長のひとりだった。過去、首長たちはモンゴル部族の統一を掲げるだけで満足していたが、ガルダン汗はもっと大きな野望を持っていた。彼は汎仏教連合国を作って清朝と対峙しようと考えたのである。これにはチベット全体とその属国が含まれ、またすべてのモンゴル諸部族も仏教信仰のもとに集まるはずだった。偉大なる五世はこの大きなビジョン作りのサポートをするだけでなく、彼自身密接にかかわろうとしていた。というのもガルダンは自身転生ラマ、すなわちトゥルクだった。五世ロブサン・ギャツォ自らデプン僧院で彼を個人的に(トゥルクとして)認定し、また教えを施した。

 1671年の間、ガルダンの兄弟サンギェ(ジュンガル部の首長)が二人の異母兄弟によって殺害された。復讐を遂げるため、ダライラマの勅許を得たガルダンは、モンゴルの伝統的な手続きに従って仏僧の戒律を捨てた。おそらく異母兄弟たちは甘く見ていた。仏法に従順なガルダンが彼らに逆らうはずはなく、僧院にとどまるだろうと踏んだのだ。しかしこれはたいへんな見込み違いだった。ひとりは殺害され、もうひとりは清の皇帝のもとに逃れるのがやっとだった。

 いまや兄弟の死の復讐を遂げることはできたが、ガルダンはそれによってジュンガルの首長となったわけではなかった。この名誉に浴するのは彼ではなく、死亡した汗(ハーン)の甥のはずだった。しかし彼は、ガルダンが仏法に仕えることをやめたことによる影響を受けた三番目の人間となった。彼は1676年に暗殺されたのである。

自身汗(ハーン)となったガルダンがつぎに模索したのは、ジュンガル部をモンゴルの諸部族のなかでもひときわ輝く部族にする道だった。彼が最初にはじめたのは、隣接するさまざまな部族を併合することだった。そしてつぎにかつて一時的にチベットの宗教的な王に服属し、現在の新疆西部のイスラム教徒のオアシス諸地区を支配しているウイグル人を平定することだった。1679年までに彼はモンゴル西部の汗(ハーン)の領土を得ることができるほど、その地位を堅固なものにした。

 しかしながら彼はここで巨大な障害物と出くわすことになった。前任者のアトラン・ハーンのようにガルダンはチンギス汗からの直系の子孫ではなかった。直系の子孫だけが後継者を主張することができたのである。ガルダンはそれゆえ目的を達成するために自身の師匠であるダライラマに相談を持ち掛けたのである。五世ロブサン・ギャツォはそれにこたえてボシュグトゥ・ハーンという称号を与えた。ハーンという称号によって高貴な出自であることが示されたのである。

 このように身分を文句なしにしたガルダンは西モンゴルのハーンであると名乗り、国土をシベリアにまで広げた。そして1688年にはモンゴル東部のカルカ部を併呑するまでの勢いを得ていた。ダライラマの名誉を軽んじたという口実を用いながら、彼は容赦ない攻撃を加え、その結果14万人もの人が逃げ出し、清朝の庇護を求めることになった。

(つづき)