歴代ダライラマの秘密の生涯 

アレクサンダー・ノーマン 宮本神酒男訳    参考:ダライラマ六世の秘められた生涯  

                                 

20 スキャンダラスな六世 

 「偉大なる五世」が死の床で遺した勅令は、悲惨な結末をもたらすことになった。彼は自身の死を秘匿するよう命じたのである。宰相(デシ)によると、五世はこの隠蔽をいつまでつづけるか期限を設けなかった。他の主張によれば12年の期限を設けていたともいう。彼らの考えでは、そうしなければダライラマ六世にもデシ自身にも災難が及んでしまうのだ。

 五世は生きているという虚構をデシが守りつづけることについて、ロブサン・ギャツォ(五世)自身がなぜ慎重になっていたのか、想像にかたくない。(チベットで軍事面において強大な力を持ったモンゴルのハーン)グシ・ハーンの死のあとにすぐ反乱が勃発した記憶がまだ生々しく残っていたのだ。まもなく六世が発見されるだろうが、国のかじ取りが取れるようになるまでには多大な年月を要しそうだった。そしてデシ(宰相)サンギェ・ギャツォはリーダーにふさわしい実務的な人物ではあったが、ダライラマが身に帯びているような威光は持っていなかった。五世の威光は生涯の長きにわたるチェンレシグ(観音)信仰のたまものでもあった。尊い守護者の寂滅のニュースよりも、ダライラマ法王が重篤の病気から回復し、無期限の隠棲生活に入ったことを民に知らしめるほうがいいとデシは考えたのだった。

 この陰謀をまっとうするために、彼はナムギェル寺から五世にそっくりの僧侶を見つけ出した。この僧侶はダライラマの私的エリアに幽閉されることになった。重要な訪問者があり、謁見せざるを得ない場合、通常どおりの丁寧な儀礼をおこない、嘆願者を受け入れて祝福を与えた。そのほかの時間、この不幸なニセモノは引きこもり、経を読んだり、太鼓や銅鑼をたたいたり、瞑想を装ったりして過ごした。ときには反抗を示すこともあったが、飴と鞭で彼は偽ダライラマの職にありつづけたのである。

 いかにうまく、正確に言えばどれだけ長く秘密が保たれたかは、さまざまな推論がなされてきた。五世は1682年に逝去した。しかし康熙帝は1696年までそのことを知らされなかった。しかもその時点でさえ正式に宣布されたわけではなかった。一方、多くの人が疑いを抱くようになっていたのはあきらかだった。新しい名前をもらうために謁見が許された五世のニンマ派の家庭教師の若い転生はダライラマがどのようであったか聞かれた。転生の少年が証言するには、ダライラマは特別な帽子をかぶり、眼帯をつけていたという。五世ロブサン・ギャツォは、頭がほとんど禿げ上がっていて、大きな飛び出るような目をしていることで知られていた。これらの特徴と合致しなかったことから、その男が影武者であると推断せざるをえなかった。

 デシはといえば、その間、国家の事実上のトップに君臨していることに大いなる喜びを感じていた。輝かしい学者としてすでに認められていた彼は、偉大なる前任者にならって公的な仕事をこなし、その時代の文化的な生活のために積極的に貢献した。国事に関する限り彼はまめに職を遂行し、さまざまな仕事場に何も告げずに現れた。会合のときには彼のために席が用意されるのが慣例になった。都で人々が言っていること、していることのすべてを知るため、彼は変装して町の遠くまで出かけて行った。*彼は頭にかぶったものの形から「平頭」(ゴレブ)というあだ名がつけられた。

 彼のお忍びの視察はほどなく悪名高くなった。人々は自分の考えを人前でしゃべるのをいやがるようになった。あるときデシはたまたま出会った酔っ払いに朝廷についてたずねた。

「わしの仕事は飲むことでさ」と酔っ払いはこたえた。「ほかのことは全部デシさまがやってくださるんで」

 デシは学者で、文学者で、政治家でもあったが、なんといっても行動する男だった。彼は毎年正月に開かれるモンラム・チェンモ(大祈祷会)のとき、弓矢の競技会に参加した。それは平民の祝祭であり娯楽だった。報告によると、デシ以上に弓を飛ばすことのできた者はいなかったという。そしてデシのサンギェ・ギャツォは、苦手であることが知られているコンテストにおいてさえ、結局は優勝することができた。正妻を決めづらかったときには、彼は「具足戒」を返上し、公式に妻をふたり持った。それに加えてラサの貴婦人たちや地方から来た婦人たちのうち、彼と寝床をともにしなかった者はなかったといわれる。

 デシの第一の任務は言うまでもなく新しいダライラマを見つけることだった。それには彼が見たいくつかのディテールのはっきりした夢と(ガドンなどの)神託の協力が役に立っていた。これらのすべてがはっきりと強く、新しい転生はチベットの南部で探すべきだということを示していた。デシはそれゆえ二人の信頼できる僧官を任命し、そのエリアの大きな寺院に送ってそのことについて調べさせた。もっとも、ダライラマの転生を探しているとは言えないので、つい最近亡くなった二人の高僧の転生を探していることにした。この調査によって将来有望な才能を見出すよう命じた。

 彼らが探している少年は、ロブサン・ギャツォが死んでから一年と六日後、「水・ブタ」の年(1683年)の三月一日に生まれた。彼の父は、ペマリンパ(14501520)の系統に属する結婚したニンマ派のラマだった。ペマリンパはウーセルと同様、尊敬される埋蔵宝典発掘師(テルトン)であるニンマ派の聖人だった。男の子の母親は家督を継いだわけではなかったが、貴族の出だった。家督どころか、土地をめぐる争いが絶えなかった。結果として家族は貧しくなり、利便がいいとはいいがたいブータンとの国境上にあるウルギェン・リンに暮らしていた。

 はじめに知らされたのは、この子供は生後三日たっても母親の乳を吸わないなど、並みではなかったことだ。それはこの子が断食をしているからではないかと考えられた。祖父はうまいぐあいにこの赤子がつねに天界のものに囲まれ、守られているという夢を見た。そして幼少の時期にこの子供は原因不明の病気に苦しめられた。彼の顔は膨れ上がり、目を開けることができなかった。一般的に信じられているのは、守護神ドルジェ・ダクデンの庇護のおかげで彼は回復することができたということである。こうした驚くべき現象がつづいた結果、この子は特別な存在かもしれないと多くの人が感じ始めた。ドゥクパ・カギュ派の高僧たちもこの子供に興味をいだくようになった。しかし彼の父からすれば、不健全な興味のように思えてならなかった。この子を彼らから守るためにニンマ派の黒魔術の儀礼がおこなわれたという。しかし地元のゲルク派の僧侶たちもまた、子供の存在に気づき、ただちに子供を管理下に置き、ガンデン・ポダンの領地の最南端のシャウクの地元の役所の施設に移した。僧侶たちはこの男の子は当地の重要なラマの転生にちがいないと考えた。しかしその後男の子は、それらの僧侶とは違うと答えている。

 デシはこの子供のことを聞くやいなや、ヒマラヤ山脈北部のツォナにあるガンデン・ポダンの地区本部に移るよう命令を出した。ここで未来のダライラマは12年もの間、軟禁状態に置かれることになる。彼の状況は責任のあるふたりの地元の知事によって悪化することになった。母親が家族に対して起こした訴訟のなかで、彼らは母親とは対極の側についたのである。

 神童はこのようにして地元の醜い政治ゲームの「抵当」となった。これに加えてツォナそのものが、1920年代後半にその地を通過した英国の植物学者(*ハロルド・フレッチャー)によって描かれた「汚くて、風が吹きすさぶ、人間が住むのに適さない百戸ばかりの村」という情景とほとんど変わらないみじめな地方だった。男の子と家族には食べ物がほとんどなかった。真冬だというのに火もなかった。まるで「死の主の牢獄の穴」に閉じ込められているかのようだった。

 そもそも男の子がとくに尊い生まれであるということを示すものは何もなかった。デシが派遣した二人の調査係の僧官はまだこの地区に到着していなかったので、男の子の健康状態についての質問を記し、この子を丁重に扱うよう要望したダライラマ五世の印璽が押された書簡も届いていなかった。この貧しくてみすぼらしい家庭から、高位ではないとはいえ、トゥルク、すなわち聖者の転生が輩出されるとは、彼らにはとうてい思えなかった。

 この見方が確認されたのは、デシが送った二人の調査係の僧官が1686年春、ツォナにようやく達したときのことだった。彼らは男の子と会うことができたが、この面会は完全な失敗だった。男の子はそのへんにいる凡庸な子供たちとはまったく異なっていた。またひどくとまどっているようにも見えた。調査係の僧官たちは五世の持ち物だった数珠を見せたが、男の子は何ら興味をしめさなかった。この男の子は有力な候補ではないと判断し、二人の僧官がこの地を去ったとしても驚くことではなかった。

 しかし大僧院であるサムイェー寺で占いを見ると、このウルギェン・リン出身の男の子こそが探していた本物の転生者であることが示された。ラサに戻り、二人の大僧正が病気になり、ツォナにおける調査が正しく行われていなかったことが彼らの夢の中で告げられることによって、サムイェー寺の占いが確かめられた。こうした経緯のすべてが滞りなくデシに報告された。彼自身の調査とも合致したので、デシは二人の僧官をツォナにふたたび派遣した。三週間後、彼らはツォナに到達すると、根気強く、男の子が転生であるかを確かめるべく再テストを行った。そして今回は男の子が転生者である可能性が高いという結論を得ることができた。

 第五の月の第五の日、ゾンに僧侶たちが集まり、二人のゾンポン(県長)にあざけられ、バカにされながらも、守護神を鎮める儀礼をおこなった。それぞれの日の儀礼の終わりに、彼らはダライラマの持ち物を混ぜたいくつかのものを少年に見せた。どの場合でも子供はダライラマの持ち物を見分けることができた。週の終わりまでに、儀礼用の短剣、パドマサンバヴァと二人の明妃の小像、「牛の乳房」と題された書、冠、ナイフ、呪術用の角、陶器の碗などを識別することができた。最終的に、五世の肖像画を見せられ、これはだれかとたずねられたとき、子供は自分を指しながら「それはぼくだ」と答えた。これで彼らが探している転生者がこの子であることは明白になった。そのとき「幸福と悲しみが一挙にやってきたかのように調査官たちの目から涙がとめどなく流れた」という。

 そのとき以来、調査官たちは少年の本当の身分を隠させたものの、家族が置かれた状況は日増しにかなりよくなった。少年はある高位のラマの転生であると宣言した。しかし家族の生活の物質面は改善されたとはいえ、まだまだ苦悩に満ちていた。彼らはおなじ二人のゾンポンの監視のもと、ツォナの宿営所にとどめ置かれた。そして幼いダライラマはおなじ建物の中ではあったのだが、親から離されて暮らすことになった。その結果、親と子が会う機会はほとんどなくなってしまった。母親からすれば憤りを我慢するしかなかった。調査チームが去ったあとに残った二人の僧侶に彼女は自分の息子を引き渡さざるをえなかった。子供はまだ3歳だった。

 それゆえつぎの十年間、新しいダライラマは「最も手厚いもてなしと忘却のあいだ」に置かれて落ち着かなかった。彼を育てる責任者はデシ本人だった。彼は家庭教師を雇い、仏教経典の内容とその読み方を教えさせた。第二の家庭教師は1690年に指名された。彼は学者として少年がゲルク派の枠内で進歩しているかどうかを見た。また年に二度、少年が転生者であることを確認すべく二人の僧侶が派遣された。その目的は少年が順当に進歩しているかどうかをチェックするためだった。彼らは直接デシに報告した。

 その間、五世の転生が発見されたことはデシともっとも近しい者たちだけの秘密として守られた。秘密にされつづけた大きな理由のひとつは、紅宮の建設だった。紅宮はポタラ宮の白宮に沿って建てられた巨大な複合建築物だった。デシが考えるには、もし五世ロブサン・ギャツォの死が知られてしまったら、外敵の脅威にさらされることになるはずだった。

 しかしより魅力的な理由はデシがかかわった外交の冒険のなかにあった。偉大なる五世(という呼び名で一般には知られるようになった)の存命中、清朝へのもう一つの大きな脅威はモンゴルの中心部から現れた。ガルダン汗は偉大なるチンギス汗の後継者を主張するモンゴル首長のひとりだった。過去、首長たちはモンゴル部族の統一を掲げるだけで満足していたが、ガルダン汗はもっと大きな野望を持っていた。彼は汎仏教連合国を作って清朝と対峙しようと考えたのである。これにはチベット全体とその属国が含まれ、またすべてのモンゴル諸部族も仏教信仰のもとに集まるはずだった。偉大なる五世はこの大きなビジョン作りのサポートをするだけでなく、彼自身密接にかかわろうとしていた。というのもガルダンは自身転生ラマ、すなわちトゥルクだった。五世ロブサン・ギャツォ自らデプン僧院で彼を個人的に(トゥルクとして)認定し、また教えを施した。

 1671年の間、ガルダンの兄弟サンギェ(ジュンガル部の首長)が二人の異母兄弟によって殺害された。復讐を遂げるため、ダライラマの勅許を得たガルダンは、モンゴルの伝統的な手続きに従って仏僧の戒律を捨てた。おそらく異母兄弟たちは甘く見ていた。仏法に従順なガルダンが彼らに逆らうはずはなく、僧院にとどまるだろうと踏んだのだ。しかしこれはたいへんな見込み違いだった。ひとりは殺害され、もうひとりは清の皇帝のもとに逃れるのがやっとだった。

 いまや兄弟の死の復讐を遂げることはできたが、ガルダンはそれによってジュンガルの首長となったわけではなかった。この名誉に浴するのは彼ではなく、死亡した汗(ハーン)の甥のはずだった。しかし彼は、ガルダンが仏法に仕えることをやめたことによる影響を受けた三番目の人間となった。彼は1676年に暗殺されたのである。

自身汗(ハーン)となったガルダンがつぎに模索したのは、ジュンガル部をモンゴルの諸部族のなかでもひときわ輝く部族にする道だった。彼が最初にはじめたのは、隣接するさまざまな部族を併合することだった。そしてつぎにかつて一時的にチベットの宗教的な王に服属し、現在の新疆西部のイスラム教徒のオアシス諸地区を支配しているウイグル人を平定することだった。1679年までに彼はモンゴル西部の汗(ハーン)の領土を得ることができるほど、その地位を堅固なものにした。

 しかしながら彼はここで巨大な障害物と出くわすことになった。前任者のアトラン・ハーンのようにガルダンはチンギス汗からの直系の子孫ではなかった。直系の子孫だけが後継者を主張することができたのである。ガルダンはそれゆえ目的を達成するために自身の師匠であるダライラマに相談を持ち掛けたのである。五世ロブサン・ギャツォはそれにこたえてボシュグトゥ・ハーンという称号を与えた。ハーンという称号によって高貴な出自であることが示されたのである。

 このように身分を文句なしにしたガルダンは西モンゴルのハーンと名乗り、国土をシベリアにまで広げた。そして1688年にはモンゴル東部のカルカ部を併呑するまでの勢いを得ていた。ダライラマの名誉を軽んじたという口実を用いながら、彼は容赦ない攻撃を加え、その結果14万人もの人が逃げ出し、清朝の庇護を求めることになった。

 ガルダンは康熙帝に忠誠を誓うという虚構を維持していたので、後者は軍隊を積極的に差し向けようとはせず、かわりに仲介すると称して、ダライラマに圧力をかけようとした。清朝からすれば、もっとも危険だったのはガルダンがロシアと結んでツァーの軍隊を中国へ向けさせることだった。一方、康熙帝にとってあきらかだったのは、ジュンガル部が内部分裂しそうなことだった。一度ならずガルダンの軍隊は甥の軍隊と戦っていたのである。

 ガルダンの軍隊が直接清朝の軍隊にぶつかり交戦したのは、1690年になってのことだった。中国の公式記録によれば、この戦いで清が勝利を収めているが、実際はよくて引き分けといったところだった。四年後、ジュンガルの遊牧地域の旱魃によって撤退を余儀なくされたガルダンは、清朝に忠誠を誓っていたハルハ部を攻撃した。

 康熙帝はこの成り上がり者と最終的に交渉することにした。自らおよそ八万人の兵を率いて皇帝はモンゴル人首領の追跡を開始し、ついに1696年、彼をジョーン・モドで捕らえた。絶望的なほど数で劣ったガルダンは派手に敗北を食らった。彼はわずかな忠実な家来とともに逃走を図ったが、数千人の死傷者を出し、さらに数千人が虜囚となる結果となった。そしてこれらの虜囚からダライラマがじつは九年以上前に死んでいること、ディパ(宰相)がいかに隠蔽してきたかということ、パンチェンラマに調子を合わせさせたこと、そしてダライラマの名のもとに「ガルダンは東へ行けば成功するだろう」という間違った予言を発していたことなどを学んだ。敗北から一年後、ガルダンは自らの命を絶った。

 疑いなくデシは、もし五世の死が公になるならば、チベットに有利だったガルダンとの関係が壊れるかもしれないと考えていた。ガルダンは、ダライラマの精神的リーダーシップのもと、モンゴル人を一つにすることに成功していた。ガンデン・ポダン(チベット政府)にとっても、隠蔽工作がばれる危険性はあるものの、やってみる価値は十分にあった。デシ・サンギェ・ギャツォの説明が口実であることを認識した康熙帝は、雲南や四川、陝西の軍隊をいつでもチベットに進軍させられると脅しながら、最大限の強い言葉で非難の文書を書いた。その返答としてデシは、懐柔するかのように、皇帝の勝利を祝う書簡を書いた。それは自らを守ろうとしているようであり、嘘っぱちのようでもあった。文面にはつぎの言葉が添えられていた。

「すべての民にとって不幸なことに、水・犬の年、ダライラマ五世は崩御された。不穏な動きが起こらないように、その死は公表されなかった。転生の少年は今15歳であり、牛の年にダライラマの宝座に就くことになっている。皇帝閣下におかれましては、どうかこの件は内密にお願いしたい」

 煩わしかったものの、皇帝は内密にしてほしいという願いを聞き入れた。そしてデシの説明に満足していた。しかしどういう理由かはわからないが、じきに彼は心変わりし、チベットへ軍隊を派遣すると正式に宣言したのである。このことを聞いたデシは狼狽したが、無理もなかった。彼は皇帝が結局のところ脅しどおりに進軍を実行に移そうとしているのではないかと恐れはじめた。デシは祈祷にすべてを費やした。すなわち守護神をなだめる儀礼をおこない、ボン教の魔術師らにツォ、つまり敵へ向かって投げつける超常的な爆弾を作らせた。皇帝が派遣したのが新しいダライラマを祝福するための官吏の一行だけだったことがわかり、この神秘的な策略は大成功だった。
 こうしている間にデシはついにダライラマが死んだことおよび新しいダライラマが発見されたことを、政府および民衆に知らせた。どうやって知らせたかといえば、『耳のための饗宴』と題された著書を書き、公衆に対して読んで聞かせたのである。異なる聴衆のために三つのバージョンがあった。(1)省略のない完全版で高僧や高官のためのもの。(2)中間の長さで、僧侶一般のためのもの。(3)一般民のための簡略版。
 若いダライラマ自身は1696年にこの『饗宴』を読んではじめて自分のアイデンティティについて学んだようである。ただダライラマの世話をした二人のゾンポン(県長)は翌夏まで知らされなかった。予想されるようにそのとき彼らは醜態をさらしてしまう。彼らは自分たちの失敗をもみ消そうと躍起になり、転生の少年と家族に贈り物攻勢を試みたのである。しかしそれはまったくの徒労に終わった。家族が本来与えられるべきだったもっともよい土地を得た頃には、ギャルユム・チェンモ、すなわち「大仏母」の胸元にあって長年の間に積もった怒りはあまりにも大きく、二人のゾンポンはとことん追及されてしまう。最終的に彼らは平民に降格となり、郷里の地域に追放された。

 『耳のための饗宴』を快く思わない官吏もいた。彼らはそれによってわけもなく道を間違えているように感じたのだ。しかし民衆の大半はデシによってだまされていたとしても満足していた。デシの人気はうなぎのぼりに上がった。彼はいま「民を守る尊い者」の派手な帰還の準備について考えていた。
 1697年夏、六世は家族とともにナンカルツェに移動した。ここは八十年前、偉大なる五世が宝座に就く前に滞在したところだ。同時にデシはポタラ宮内のダライラマのための新しい寝宮の建設に着手した。六世の喜ばしい帰郷の儀式の準備のため、デシはチベット南部の百の寺院に一般的な献茶儀式をおこなうよう命じた。また十の地区で戦神を呼ぶ儀礼をおこなうように、三百の聖なる山の峰々や尾根で祈祷の旗をはためかせるように、ラサの大きな寺院すべてで儀礼用スカーフ(カタ)を奉納するように、ダライラマの個人的な祠堂のために新しい仏像のセットを彫るように、そして若い彼自身の利益のために偉大なるニンマ派の祖先、ペマリンパの儀礼をナムギェル寺院で行うようにと命じた。

 若きダライラマは偉大なる五世のもっとも重要なニンマ派教師二名を紹介された。彼らによって先代と同様に秘密の名が与えられるのである。そしてもっとも重要なことは、ダライラマがパンチェンラマによって正式に出家し、新しい僧侶となることだった。若きダライラマがデシをはじめて見たのはこの儀式のときだったかと思われる。ツァンヤン・ギャツォ――いまそう名付けられた――はときに笑い、ときに泣いた。デシもまた感極まり、「喜びと悲しみが一度に押し寄せてきたかのようで」人目もはばからず泣いたという。

 多くの点において、出家して僧侶となる剃髪儀式は、僧侶生活のなかでもっとも意義あるできごとである。それゆえデシが言及するように、儀式に先立ち、ダライラマが髪を洗うとき泣き崩れてしまったのは、理解しがたいが吉兆だった。

 まもなくしてダライラマは華やかな騎馬行列とともにナンカルツェを去り、ラサ近郊のニェタン平原へ移動した。この行列には政府の官吏、高位、下位のラマ、一般の僧侶、貴族、そして厳格に席次に従ったこれらすべての人々の下僕や宿営に絡む人々が含まれていた。七日間の旅の間、毎日ツァンヤン・ギャツォの宿泊施設としてのテントが立てられた。そしてその左右には156のその他のテントが立てられた。しかしこの旅する華やかな見世物も、ニェタンの「テント都市」の前にはほとんど価値を失った。組み立て式の壁と四方の門に囲まれた「テント都市」は、帝国時代(吐蕃時代)の王たちのために作られた王室の幕営を髣髴とさせた。夜になると、「天界の星々が地上に降りてきた」かのようだった。一か月後――その間に新ダライラマは何千人もの善良なる人々の祝福や訪問を受けていた――騎馬行列が残りの短い距離を移動して都に至ったとき、中国やインド、モンゴルでも聞いたことがない雷鳴のような蹄の音の轟(とどろき)が聞こえた。

 ツァンヤン・ギャツォはラサ近郊の宿営地の麻布の中で最後の夜を過ごした。十月二十四日朝、すなわちデシが綿密に、精力を尽くして占星術に取り組んでようやく導き出した日、ポタラ宮までの最後の行程に踏み出す前、彼は一万人強の群衆に祝福を与えた。途中で彼は憑依状態のネチュンやガドンといった神託や、康熙帝が派遣した使者である百人の騎馬隊のもてなしを受けた。

 デシに火のついた線香で先導されながら、ツァンヤン・ギャツォはポタラ宮の周囲を二周した。彼はその間、「絵になる」先代が座していた宝座にすわっていた。ひとりの若い貴族がこのとき彼に近づき、幸先よく、ヨーグルトの入った皿を献上した。つぎにデシは長い演説をし、この需要な式典に至るまでの全体の成り行きについて歌に詠み上げた。五世の印章が手渡され、ついでガンデン・ポダンにすばらしい贈り物が献じられた。それから高位の人々からの個人的な献納がつづいた。まずパンチェンラマ、そして康熙帝からの勅許証と贈答品を示したモンゴルの最高位、チャンキャ・フトクト、ゲルク派の選出された首席ガンデン・ティパ、三大寺の寺主、その他の高僧ら、つづいてモンゴルのハルハ部、トルグート部、ジュンガル部の首領や貴人らである。これらのセレモニーと壮観な行列はいままで、そしてこれからもチベットではありえないものだった。ここにいた人々の多くが、上空から響き渡る神々の陽気な笑い声を聞いていた。

 「戴冠」の翌日、六世は各州やゲルク派以外の、すなわちサキャ派、ドゥクパ・カギュー派、カルマ・カギュー派、ニンマ派、ボン教の首領から贈り物を受け取った。これは親しみ深い教派や地区が名を挙げてもらうためでもあった。さらに二日間、各名士や高僧ら、また遠くからラサへやってきた貴族らがやってきて六世と謁見した。そのあとシッキムやラダック、ザンスカル、カトマンズの支配者の息子らが謁見した。この間もずっと庶民の間では喜ばしい祝賀や踊りが行われていた。

 興奮の渦がようやく収まったのは一か月後のことだった。そして若い六世がデシとともに「偉大なる五世」の墓(ストゥーパ)を奉納したとき、にぎやかさがよみがえってきた。ザムリン・ギャンチグ(dzam gling rgyan cig)、すなわち「世界の唯一の装飾」として知られる7500ポンド(12万オンス)もの純金を使った金箔に覆われた巨大な石棺(チベット語でチョルテン)は5メートルもの高さがあった。しかもこれに嵌め込んだ宝石の価値は金箔を上回るという。

 その後新たに宝座に就いた六世は、謁見と祈祷の儀式の繰り返しの中に身を置いていることに気がついた。同時に彼はパンチェンラマの指導の下、公的な訓練をまじめにやらなければならなかった。この極端な運命の変化が心理的に、また感情的にどのような影響を与えたかは、推測するしかない。彼が知る限り、一年前、14歳だったとき、比較的マイナーな転生ラマの候補にすぎなかった。いまや彼は宗教界の最高位の人物であり、中央アジアの広大な領域を占める崇高な、ほぼ帝国といっていい国のトップだった。

 デシにも、そしてダライラマという人間にもっとも近い人々にも、この環境変化がツァンヤン・ギャツォの嗜好をすべて変えたわけではないことがわかってくる。ツォナから寄せられる報告がまったくもって肯定的だったので、不自然なほど誇張されていたかのようだった。若き六世は宗教の学習に熱中することはなく、知的な探求よりもアーチェリーを好み、デシが望んだように態度を改めることなく、実際のところ堕落しきっていたのである。彼の取り巻きも若い不良貴族たちだった。

 つぎの数年間のダライラマに関する情報はほとんどない。1701年、すなわち彼が成年に達した年、デシは三大寺の寺主たちを召喚し、ダライラマが誰の言うことも聞かないこと、自分自身のことも、母親の言うことも聞かないことを告げた。つぎにわれわれが知るのは、収穫祭の儀式が年の終わりに行われたとき、六世はポタラ宮の大広間にほんの少し姿を見せたことだけである。デシは彼を説得してダライラマとして正しく宝座に座るよう促したが、衆目の前で彼は拒んだという。

 デシが日誌を捨てたのはこのときである。この時期の主だった情報源だったのだが。結果として私たちが知っているすべては若い六世の短期間の輝きだけということになる。それはたとえばデシとパンチェンラマの書簡のやり取りから見えてくるものだ。書簡のなかでデシはパンチェンラマに干渉してくれることを望んでいる。そしてパンチェンラマとダライラマのやり取りのなかで、パンチェンラマはツァンヤン・ギャツォにタシルンポ寺を訪ねなければならないと呼び掛けている。この要求に対しダライラマは年長の教師に会うのはとてもうれしいが、いま少し体調が悪いと説明している。とはいえ圧力を感じたのか、最終的に彼は行くことに決め、1702年夏に彼はシガツェを訪れた。パンチェンラマはツァンヤン・ギャツォに心から仏教に心を捧げるよう懇願した。実際二十歳になったので、ダライラマは僧として最終の誓いを立てなければならなかった。六回、五体投地をして礼拝し、ダライラマは基本的なマントラを唱えた。「じつはラマの訓戒を破っています」彼は教師の要請を拒んだ。それどころか戒(具足戒)を受けるのを拒んだだけでなく、小さい誓い(沙弥戒)もまた返上しようとしていた。われわれはパンチェンラマの驚きようを推察することしかできない。しかしツァンヤン・ギャツォの驚きの行動はこれで終わりではなかった。もし受戒の放棄が認められなかったら、タシルンポ寺の方向を向いたまま自害すると言い放ったのだ。これはもう闘いの言い草である。ダライラマ自身がそんな脅しをかける以上の攻撃性の言葉が想像できるだろうか。

 パンチェンラマは彼の要求をやんわりと取り下げさせようと、反逆者を説得するべく最後まで努力した。ダライラマのほかの教師のほか、デプン寺やセラ寺の高僧、その他の数寺の大ラマ、地方の貴族、たくさんのモンゴルの首領たち(その中にはジュンガル部のラザン汗も含まれていた)――すなわちパンチェンラマが話すことのできるあらゆる階層の人々――の協力を得て、ダライラマにせめて比丘(ゲロン)戒だけでも受けるよう促したかった。はじめは個別に、ついで集まっている人々全体でツァンヤン・ギャツォに翻意を迫ったが、「ダライラマの返答の声がかぼそくなるだけで、彼の考えを変えさせるには至らなかった」。パンチェンラマはあきらめるしかなかった。

 タシルンポ寺からラサに戻ったツァンヤン・ギャツォはポタラ宮で過ごすのだが、もはや俗人だった。同時代の記録によると、長髪で、俗人の貴族が着るような青い絹の着物をまとい、指には指輪をいくつもはめていたという。

 デシにとって聞くところ、見るところすべてが心をくじかせる、容赦ない災難だった。さらに悪いことには、若いダライラマはさまざまな世俗の友人らとあけっぴろげに過ごし、ラサ郊外へ行くこともあった。彼はアーチェリーを愛し、さらに遊びのレパートリーに問題ある行為を加えていた。夜な夜な彼はショル、すなわちポタラ宮が立つ丘の麓の村に出かけていたのである。ショルの数えきれないほど多くの家の壁が白でなく、黄色に塗られていた。これはその家の娘がこの多情な背教者を好んでいる徴だという。さらにデシにとって屈辱的だったのは、ダライラマが彼の娘と寝床をともにしたことであったという。

 こうしたことがありながら、またダライラマ六世が物議をかもす人物であったことをだれも否定しないのに、現在彼は才能ある詩人として、作詞家として、好意的に記憶されている。チベットの人々への贈り物、すなわち六十余りの愛の詩は、長く根強い人気を保ってきた。スキャンダルを起こしたにもかかわらず、ツァンヤン・ギャツォは広くチベットの男女から愛されてきた。

 その詩は翻訳がむつかしいことで知られている。歌の多くはあきらかに性的なイメージを伴っている。

 

わが寝床の上にいるのは柔肌の乙女なのか 

やさしくて愛らしいのに 

わが宝と富を奪ったのではないのか 

ずるがしこいやりかたで 

 

 この詩を最初に見たとき、その意味は書かれているとおりに思えるが、そこにスピリチュアルなものを読み取ることも可能だろう。たとえば、宗教的な観点からすれば、「宝」はよいカルマを表している。密教的な観点からすれば、それは実践者の精液のことである。オーガズムに達した時点で彼自身息を吸い込み、不二の歓喜を経験するだろう。こうしたことから、ツァンヤン・ギャツォが放縦であると認められているものの、ダライラマ五世の本物の転生でないことを示すものはなかったのである。実際、六世本人が真正さを否定しようとはしていなかった。現在のダライラマ(十四世)の意見では、六世はダライラマ制度を改革しようとしていた。すなわち長子相続に変えようと考えていた。それでもツァンヤン・ギャツォのふるまいが正当化されるわけではないのだが。

 六世に関する民話から、デシがいかにしてダライラマの友人を見せしめに懲らしめようとしたかがわかる。友人のひとりはタルゲネという名の若い貴族だった。デシは彼がダライラマを悪に染めたグループの主犯とみなし、暗殺を企てたのである。不幸なことに――そう物語は展開する――暗殺者は別人を襲ってしまう。夜、遊びはしゃぎまわっていたタルゲネとダライラマは、召使と服の交換をしていた。早朝家に向かって歩いていたとき背中を刺されたのはこの召使だった。怒ったダライラマは神託を呼び、暗殺を仕組んだ者の正体をあばこうとした。企てた者たちの名が明らかにされ、ダライラマの命令で三人が処刑された。デシだけが罰を逃れることができた。

 1703年、デシは長男のガワン・リンチェンにその座を譲るため、宰相の地位を辞職した。これはダライラマの成長に関するデシの役割に対する高まりつつあった批判を受けてのことだった。ツァンヤン・ギャツォが真正のチェンレシグ(観音)の転生であることに疑いはなかったが、若者の教育を監督するのに勤勉さが足りなかったように感じられたのである。さらには十二年以内に転生を発表するよいう五世との約束を守らなかったことがチベットに不幸をもたらしていると多くの人は感じていた。彼の人気は凋落していたものの、この権力移譲は名だけのものだった。デシは権力を持つことに慣れきっていたので、職を辞するのは気が進まなかった。

 同年、形だけチベットの王だったテンジン・ダライ・ハーンが死んだ。王の座はまず長男に受け継がれ、そしてすぐ末弟に受け継がれた。長男は末弟によって毒殺されたという。新しい王は、パンチェンラマが六世に出家させようとしたが失敗したとき、その場にいたモンゴル人首領のひとりラザン汗だった。当初からラザン汗はチューヨン、すなわち僧侶とパトロンの関係、あるいは国の精神的首領と世俗的首領の関係から、紳士的な原理により、居座る意図はないというシグナルを送っていた。デシはといえば名目上引退し、ラザン汗を殺そうという動きに同調していた。彼はほとんど成功しかけていた。イタリアのイエズス会の神父デシデリによると、十三年後に会ったとき、ラザン汗は毒を盛られた影響で――それは死ぬまでつづいた――病気に苦しんでいたという。

 驚くべきことに、王は復讐をするためにすぐには動かず、むしろ機が熟するのを待った。機会はモンラム・チェンモのすぐあとにやってきた。偉大なる五世のチョルテン(ストゥーパ)の前で開かれた大評議会の席で(この評議会はダライラマだけが主宰するのではなかった。パンチェンラマや三大寺の寺主も参加していた)デシはラザン汗に、高潔なるチベットに堪えられない脅威を与えている、最終的に交渉の必要があるのではないかと論争を挑んできた。しかしそれでも動きはなかった。デシの力が衰えてきたとき、反対提案が示され、ラザン汗はココノール(青海湖)地区まで退却した。一方でデシも政治から身を引き、ゴンカ地方に移動した。

 この布告はラザン汗に出されたものだが、この頃までに彼は自分の軍隊とともに中央チベットに戻ろうとしていた。従順を装い、彼は東へ退却し、止まった。そこはしかしまだナチュだった。彼はここで戦闘の準備を整えた。五月までに準備は整い、彼は都を取るべく出発した。抵抗を示したのはデシだけだった。しかしデシの軍隊は当然のごとく完敗した。デシデリによると、総崩れしているにもかかわらず、教主自身によって封印されたダライラマ名義の命令が出されたという。デシはこれで降伏することになるのだが。彼は辞職し、ラサを去った。しかしデシは遠くまで行くことができなかった。というのもラザン汗の妻ツェリン・タシのために動いている軍隊に止められてしまったのである。彼女は彼の手によって辱めを受けていて、その復讐を果たそうとしていた。数年前、デシとラザン汗の間でチェスが行われたとき、彼女は「賞品」だったという。デシに危険が迫っていると聞き、ダライラマは救助チームを送って助け出そうとしたが、一歩遅かった。彼らが到着したとき、首を切られた遺体はまだ暖かかったという。

 すぐにラザン汗は彼に敵対したすべての人を処罰した。じつに多くの人を処刑し、むち打ち、投獄した。そしてチベットの絶対支配のために残る障害はひとつだけになった。それはいうまでもなく、ダライラマ本人だった。

 六世がラザン汗勝利のニュースを聞いてどのような反応を示したか、われわれにはわからない。彼がデシのために干渉しようとしたことは、まったくもって受け身の脇役だったわけではなかったことを示している。われわれにわかるのは、彼のふるまいがしっかりしていなかったにもかかわらず、庶民からの絶大なる支持を得ていたことだ。ラザン汗にはそれゆえゲルク派内部や清朝内部に援軍が必要だった。ただし清朝は請われればダライラマを守ることを期待されていたのだが。ラザン汗はまずタシルンポ寺のパンチェンラマにこれでもかというほど贈り物を送り始めた。それから彼は清皇帝に忠誠を誓う書簡を送った。つぎに彼は三大寺の寺主にツァンヤン・ギャツォがチェンレシグの真正の転生であるという認定を取り消すよう圧力をかけた。はじめ彼らは拒否したが、ラザン汗の忠誠の誓いが功を奏して皇帝の支持を得られるようになると、ボーディ(菩提)すなわちブッダの心がダライラマの中にもういないということを、しぶしぶ認めた。1706年夏、つぎなるステップは、ツァンヤン・ギャツォは結局偉大なる五世の転生ではないというラザン汗の公での発表だった。五月一日(6月11日)、ダライラマは武装した警備兵によってポタラ宮からラサ郊外のモンゴル軍の野営地に護送された。彼が正式に詐称者として法廷に呼ばれると、そこでラザン汗は彼の悪事と失敗を列挙した。ツァンヤン・ギャツォはこのときはじめて康熙帝が彼と謁見すべく北京に召喚したことを知った。

 民衆の間に極端なほどの敵対的な感情が沸き起こるのはしかたなかった。そのことをモンゴル人の軍隊はチェックしておくべきだった。翌日、恐れを知らない板を持ったデプン寺の僧侶たちが、デプン寺の前を通り過ぎようとしたダライラマを清に護送する一行に襲いかかったのである。野蛮な群衆の攻撃も加わり、彼らは勝利のうちにダライラマをガンデン・ポダンまで運んだ。しかし予期されたとおり、ラザン汗は迅速に、無慈悲に応酬した。砲兵隊の援軍も加わり、彼の軍隊はデプン寺を取り囲み、砲弾を嵐のごとく炸裂させた。そしてデプン寺を火の海にする準備が整った。虐殺が避けられないとみたツァンヤン・ギャツォは、わずかな手勢を連れて脱出し、モンゴル軍に降伏した。ダライラマは中国への旅を再開し、その間にデプン寺は荒らされ、略奪された。

 ツァンヤン・ギャツォが最終的にどうなったかは、推測するしかない。すべての資料はチベットにおけるモンゴル人の夏の放牧地ダムに着いたとき、ダライラマは病気になったとしている。それにもかかわらず彼は強制的に旅をつづけさせられた。中国側の資料によると、1706年の十月十日(11月14日)、ココノール(青海湖)の手前で彼は身まかったという。神父デシデリの報告によれば、チベット側の資料にダライラマは毒殺されたとはっきり書かれているという。しかし彼は単純に「消えた」と言う人も依然としているのである。



⇒ 「傀儡と詐称者」