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 この遠征事業は失敗だった。アザラシはほとんど見つからなかった。捕獲されるアザラシが分配されるはずだった船員たちが不平をこぼしはじめた。氷が分厚く、船団は南極に到達できなかった。上陸メンバーが乗ったロングボートが氷塊を避けようとしたとき、船団と離れ離れになり、あぶなく彼らは遭難するところだった。

 船団がチリの海岸にとまったとき、船員たちは逃走し始めた。人力不足に直面しあので、船長たちは帰国することに決めた。理由はよくわからないが、レイノルズはチリに上陸し、そのまま残った。

 しばらくの間彼はチリ国内を歩き回った。そしてスマトラ島での任務を終えて帰国の途に向かっていたUSSポトマック号がバルパライソに寄稿すると、レイノルズはそれに乗船した。そしてつぎの18か月間、提督の私設秘書として勤めた。米国に戻る途中、彼は『ポトマック号航海報告』を刊行した。

 しかしレイノルズは南極行きをあきらめたわけではなかった。彼は講演活動をつづけ、南極地域への遠征の必要性を訴えた。そして1836年、下院に招待され、演説することが許された。彼のスピーチは情熱的であり、説得力があった。

 その結果生まれたのが1838年から1842年にかけてのUS探検遠征隊、あるいは隊長の名にちなんだウィルクス遠征隊だった。六隻の米艦船によって南太平洋の島々が調査された。南極の海岸線が測量され、動植物の種が集められた(発見された種はスミソニアン博物館のコレクションの核となった)。しかし地球の空洞へと通じる入口は発見されなかった。南極探検の許可は出ていたものの、南極大陸の大半は未探索のままだった。とはいえ科学的データはかなり集められた。

 レイノルズが失望したのは個人的なことだった。海軍長官ともめたため、彼は遠征チームに加わることができなかったのである。しかし彼は自分が成し遂げたことに誇りを感じていた。彼の努力によって知識において大いなる発展がもたらされ、政府は科学調査の守護者としての地位を確立したのである。

 


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