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 1939年までにバラード夫妻は成功の頂点に達した。彼らはエドナのハープを載せたトレーラーをキャデラックで引きながら、なおも群衆を惹きつけてやまなかったレクチャーの旅をつづけた。研究グループは花開くようにたくさん生まれた。そして夫婦は富裕になり名声を得た。

 しかし彼らは攻撃を受けることにもなった。敵対的な刊行物という形で。

 最初の一撃を浴びたのは前年のことだった。故郷のシカゴでのことである。シビック・オペラ・ハウスでのレクチャーのあと、ガイ・バラードはロビーで著書にサインをしていた。そのとき突然法的文書が突き付けられたのである。地元の女が彼から数千ドルだましとられたと訴えた。それは十年前のことで、価値のない金鉱のために持っている株を売ってしまったと彼女は主張した。

 翌日、「女、偉大なるI AMを訴える」といった見出しがシカゴの各新聞に躍った。ほくそえんでもまちがいではなかった。新聞は女が詐欺として訴えた内容をその後の数日間に詳しく報じた。その一つがまだ開発されていないカリフォルニアの金鉱だった。

 バラード夫妻はすぐに反撃した。訴えを根拠のないものと主張したのだ。つまり敵による「悪意ある攻撃」として訴訟を非難したのである。彼らはI AM運動の生徒たちを不協和音の侵入もうまく対応しているとして称賛した。エドナは宣言した。

「バラード氏はいままでけっして不誠実なこと、不名誉なことはしたことがありません。これからもけっしてすることはないでしょう」

 サンジェルマンからのコミュニケ(公式声明)のなかにも、メッセンジャーの誠実さは擁護されていた。バラード夫妻を通して彼は訴訟を非難し、各新聞紙に対しても天罰が下るだろうと脅した。しかしガイ・バラードの名声にも、I AM運動そのものにもダメージがなかったとは言えない。

 そうしている間にも、あらたに敵対的な人物が現れた。ジェラード・ブライアン、もともとI AM運動の生徒だった人物である。彼は運動に幻滅し、それに反対する立場に変わった。1936年以来、彼はパンフレットを刊行し、そのなかでバラード夫妻の実体を暴露しようとした。ブライアンの意見によれば、夫妻は詐欺師であり、富と権力に飢えていた。そして金鉱とおなじように、認定されたメッセンジャーであること、またチャネリングによって得た教えなどというものは大嘘のコンコンチキだった。

 ついにはブライアンはパンフレットから『アメリカにおけるサイキックの専制主義』という本を仕立て上げた。1940年に自費出版されたこの本は彼の体験をもとに書かれたものだ。それは他者からせがまれておこなった証言であり、I AM運動自身の著述でもあった。彼はしつこいほどバラード夫妻の主張に反する自分の例を挙げている。

 たとえば1929年にシカゴの大審院で詐欺を働いたとして判決を言い渡されている。それにはカリフォルニアの金鉱の株を売った件も含まれていた。バラードは町から逃げたことによって逮捕を免れた。

 そのあと彼はどこに行ったのか。ロサンジェルスであると、ブライアントは言う。そこで彼は偽名を使って暮らした。彼はニューエイジのレクチャーに通い、サイキックの能力を用いてあらたな金鉱を探した。(前回ロサンジェルスに滞在したとき、金鉱を発見していたが、そのことが訴訟につながっている)バラードは二年間カリフォルニアに残った。刑が科せられなくなったあと、彼はエドナと再合流した。

 シャスタ山でサンジェルマンと会ったと主張するのはこの時期だという。ブライアンによればまがいものの主張である。

 ブライアンはまたI AM運動をどのように思いついたかについても追っている。カリフォルニアに最初に滞在したとき、バラードはニューエイジ教会を訪ねた。彼とともに教会を訪れた友人はつぎのように証言する。

 

 サンフランシスコにいる間にガイのこの偉大なる着想が生まれたのです。われわれは**教会というまがいもの教会へ行きました。そこはデタラメばかりでした。祭司と女祭司が12人の純潔な処女を聖歌隊として侍らせ、黄金の椅子に座っていました。彼らの後ろには光り輝くイルミネーションの巨大十字架がありました。儀礼の間、薄着の処女たちが聴衆に花を投げていました。

 この場面のときのガイの顔は見ものでした。彼はこのショーに魅了されていたのですが、教会には参加しませんでした。外の歩道に出るやいなや、堰を切ったように彼はこの話ばかりをしました。最近聞いた話を総合しますと、彼の教会も背景をきらびやかにし、おなじようなスタイルに仕立て上げているようです。

 

 ブライアンはI AM運動をはじめる前のバラード夫妻の活動について探求していった。とくにその難解な内容がどこから生まれたか、追跡したのである。

 

 彼らはオカルト・パワーを求めて導師から導師へと渡り歩いた。ここで注意しなければならないのは、彼らが会ったのは、だまされやすい読者が信じるようなアセンデッド・マスターたちではなく、ただ単に、(霊的世界でなく)この物理的な世界の霊媒やオカルトのレクチャー導師、ヒンドゥー教徒、エジプト人、その他形而上学の魔術世界に属する人々なのだった。

 彼らは形而上学的な流浪の民となり、数えきれないほどいる地に足の着いた教師たちのもとに坐った。そしてほかの霊媒がそうするように、スピリチュアルなメッセージを受け取ることによって事業を多様化したのである。

 彼らはクリスチャン・サイエンスの要素も少し取り入れ、ウォルター・メソッド(終末論)の本を読み、カンサス・シティのユニティ・スクールに触手を伸ばし、AMORC(バラ十字会)と提携し、キリスト教神秘主義会に参加し、銀シャツ党ペリーのもとで学び、何人かのスワーミーの足元に坐り、神智学についての著書を読み、ヨーガ行者の哲学やオリエントの神秘主義について調べ、ベアード・T・スポールディングと極東のマスターたちに興味を持った。このスポールディングとマスターたちが彼らにアイデアを与えたのはまちがいない。これらの形而上学的なコンタクトは金鉱が生み出さなかった黄金を生み出した。手記によると、サンジェルマンは金鉱以上のお金をもたらすと語った。

 そしてブライアンは言う、バラードの著書の大半はいかさまであり、他者からの剽窃であると。彼は『明かされた秘密』の一節をオカルト小説の一節と比較し、類似していると指摘している。*2 

*2 オカルト小説と、はたとえば『スピリットランド』(1896)や『二つの惑星に住む者』(1905)、『ミリアムと神秘的な同胞会』(1915)など。『二つの惑星に住む者』(作者はフレドリック・スペンサー・オリバーのチャネリングを通したチベット人フィロスと仮定されている)は「I AM」に言及があり、『ミリアムと神秘的な同胞会』には黄金の衣をまとったマスターたちが登場する。

 最後にブライアンはバラード夫妻の独裁主義的な支配を批判する。I AM運動はサイキックの専制主義であると彼は宣言した。つまり極悪非道のカルトであると。それを明らかにするのが自分の役目だと彼は語った。

 ブライアンのあげた声は、I AM運動に多大な損害をもたらした。しかしもっと悪いことが起きてしまった。1939年12月29日、ロサンジェルスの息子の自宅で、ガイ・バラードは病に倒れ、あっという間に死んでしまったのである。

 エドナはたったひとりのリーダーとしてできうるかぎり活動をつづけようとした。彼女の夫の死によってリーダーシップに問題が生じたわけではなかった。むしろ彼らの信用性に疑義が生じたことのほうが問題だった。自分自身を治すことができないのに、力強いI AMのパワーによって、何千人もの人を治すという宣言をした人物を信用できるだろうか。さらにガイは常日頃からアセンションをすると公言していた。物理的な身体の限界を脱し、アセンデッド・マスターたちの仲間に入る、すなわち死なない。彼がアセンションに失敗したことによって信者たちは失望せざるをえなかった。彼らは自分たちもおなじようにアセンションすることを願っていたのである。こうして多くの信者がI AM運動から離れていった。

 六か月後、I AM運動はもっとも強烈なダメージを食らうことになる。連邦大審院はエドナ・バラードと息子およびI AM幹部に判決を言い渡した。(もし物理的身体の限界がなければ、有罪を免れなかったろう)彼らは郵便を使った詐欺罪で有罪判決を言い渡されたのである。

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