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 ひとつづきの裁判が始まろうとしていた。それは憲法史におけるランドマークとなる判決となると思われた。

バラード夫妻はお金もうけの目的でエセ宗教を立ち上げ、米国郵便も同様の理由で詐欺に利用したと訴えられた。精霊世界とコミュニケーションしているとか、病人を治すといった主張は、よく知られているように真実ではなく、ゆえに詐欺行為である。バラード夫妻に対する12の告訴のうちのひとつは、彼ら自身を誇張しすぎていたことにたいするものである。

 

 最初の裁判はI AM運動の本部があるロサンジェルスで開かれた。それは一か月つづいたが、評決は出なかった。しかし政府はエドナを獄中に入れ、I AMカルトを弾圧することにした。そこで彼女をもう一度裁判にかけた。今回は成功を収めた。被告に有罪判決が言い渡された。エドナには一年の執行猶予判決が下された。罰金は3千ドルである。そしてI AM運動や関連した事業にかかわることを禁じられた。彼女はヒーリングやアセンデッド・マスターたちのためのチャネリングもできなくなった。

 彼女の弁護士たちは(エドナは最良の弁護士に依頼することができた)控訴状を提出した。合衆国vsバラードは第九巡回裁判所で取り上げられた。そして2対1の評決で有罪判決が覆された。

 こんどは政府が控訴する番だった。最高裁はこの件の控訴を受理した。そして5対4の評決で控訴裁判所の判決を覆した。有罪判決が復活したのである。(正確に言えば、再考のためにこの件を裁判所に差し戻した)

 これが最終判決である。エドナは詐欺で有罪となった。認定されたメッセンジャーの認定は取り消された。偉大なる命の法を教えることはできなくなった。(そのように思われる。しかしまたあらたな曲解がなされることになるが)

 この件がランドマークとなるのは宗教の自由と関連しているからである。つまりそれは最初の憲法修正だった。ロサンジェルスの最初の法廷で主任判事をつとめたJFT・オコナーは陪審らに指示を与えている。彼は陪審らに、I AM運動の教えが真実かうそかということは、詐欺罪で有罪かということには関係ないと言った。唯一の問題は、バラード夫妻がこれらの教えを信じていたかどうかなのである。彼らが誠実であるかどうかが裁判で問われたのであって、I AM運動の形而上学は関係なかった。サンジェルマンが精神世界に実在したかどうかは、(法律的には)どうでもよかった。むしろ問題となるのは、バラード夫妻が本当にサンジェルマンが姿を現したと信じているのか、彼の智慧を夫妻に渡したと、また病人を治したと信じているのか、ということだ。それとも彼らは富を得るために装っているだけなのだろうか。後者であるなら、それは詐欺行為である。オコナー裁判官は(第一憲法修正の一部を読み上げたあと)つぎのように述べた。

 

 被告たちの宗教信仰はこの裁判における問題点ではなく、あなたがたが考慮すべきことでもない。問題は、被告人たちが正直に、またよき信仰においてこれらのできごとが実際に起きたことであると信じているかどうかである。

 

 こうした基礎の上に、被告人たちは詐欺罪において有罪とみなされたのである。I AM運動は不正な金儲けだったと陪審は認めた。金儲けの悪だくみだったのだ。バラード夫妻は生徒から金をしぼりとるために自分たちを偽った。

 しかし第九巡回裁判所はオコナーの理屈を認めることはできなかった。I AM運動の教え(アストラル体、輪廻転生、超常的ヒーリングなど)が真実か大ウソであるかは問題として適切であると巡回裁判所は宣告した。もしこれらの教えが正しかったら? この場合、詐欺行為はなかったことになる。しかしながら不誠実であり、お金目当てであることにちがいない。生徒たちは支払ったぶんだけのものは得ている――宇宙についての真実を! しかしもし教えが間違いだったら? もしそれらがバラード夫妻の作り出したもので、リアリティと何ら関係ないものだとしたら? そして利益を得るために偽りを述べているなら、それは詐欺行為にあたる。教えそのものに価値があるとしても、バラード夫妻の利益のためであり、誤った使われ方をするなら、それは詐欺行為なのだ。

 このように、上訴裁判所が言うには、公判はこの件の決定的な面は、とくに教えが真実であるかにせものであるかは無視すべきである。こうして有罪判決が下り、判決は覆された。

 5対4の評決で最高裁は論議が説明不十分であること、実際憲法に反していることを認定した。米政府対バラードの戦いのなかで、憲法修正第一項は効力があると裁判所は示した。5人の判事の見解では、オコナーが裁判所に示した事実説明は完全に適切であった。バラード夫妻の宗教的な教えは評価されるべき対象ではなかった。彼らは憲法修正第一項によって守られていたのだ。I AM運動の教義は外部の人間にとってはばかげたものかもしれないが、いかなる裁判所でも、特定の宗教がまちがいであるとの裁定を下すことはできなかった。そして評決によってそれにたいして処置を講じることはできなかった。

 ダグラス裁判官は大衆に対しつぎのように説明した。

 

 異端裁判は我々の憲法にはなじまないものである。人は証明できないものを信じているかもしれない。宗教の教義や信仰の証明を強いられることもないかもしれない。一部の人にとって、宗教体験はとてもリアルだが、他人には理解不能かもしれない。しかしながら人間の領域を超えているという事実は、彼らが法律のもとに容疑者であることを意味するわけではない。彼らの多くは新約聖書から彼ら自身の福音を抽出している。しかしこれらの教えが間違った表現を含んでいるかどうかを判断する義務から、裁かれるべきと想定することはできない。新約聖書の奇蹟の数々、キリストの神性、死後の生、祈りの力などは多くの人にとって強く確信されたものだ。もし敵対的雰囲気の中で彼らの教えが間違っているとされ、牢獄に送られるなら、宗教の自由などほとんどないということになってしまうだろう。

 

 手短に言えば、人は自分の信仰に関し憲法上の権利を持っているということである。いかなる陪審も宗教を値踏みし、それの過失を見つけ、信仰を告白したとしてその人物を罰することはできないのだ。

 表面的には、この法律はエドナに有利に働いたように見えた。しかし実際にはその反対だった。というのも覆った判決の地盤となるものが無効になったからである。控訴裁判所によると、オコナー裁判官はI AM運動の宗教教義を価値あるものとして認めるべきだった。しかしそうやって価値を認めることは、憲法第一修正に反していた。それを容認しないためにオコナーは適切な行動をとった。こうしてもともとの判決が残ったのである。

 最高裁は宗教信仰の自由を守りながらも、有罪の判決を維持することができた。そしてエドナに不誠実な、金銭目的の宗教活動をさせなかった。

 しかし四人の裁判官はこの決定を不服とした。そのひとりはジャクソン裁判官だった。彼の反対意見はしばしば宗教的自由の保護者に引用される。ジャクソンは、そもそもエドナは裁判を受けるべきではなかったと主張した。彼の意見では、I AM運動の教義は「ペテン以外の何物でもない」。しかし、と彼は述べる。

 

 宗教体験や信仰の偽りが起訴できるかどうかという憲法上の疑問がどうしても残ってしまう。むしろそのように起訴することのほうが危険なのだ。宗教、言論、出版の自由が危険にさらされることになる。こんなくだらないものを擁護するのかと思われるかもしれないが、ここは我慢のしどころである。

 

 宗教教義は裁かれるべきではないという多数の人の意見にジャクソンは賛成する。しかし彼の考えでは、それらは誠実な信仰から生まれたものではなかった。「いったいどうやって」と彼は疑問を呈する。「政府は、それが誤っていると証明できないのに、この宗教者たちが誤っていると証明できるだろうか」。そして彼はウィリアム・ジェームズの信仰の主観性に関する論を引用する。

 

 ウィリアム・ジェームズが科学者としてこのテーマについて書いている。彼によれば宗教を成り立たせているのは神学でも儀礼でもない。多くの人にとってその活力は宗教体験のなかにある。「もしあなたが宗教体験とは何かとたずねるとしたら(とジェームズは書く)、それらは見えないもの、声、幻影との会話である。祈りにこたえること、心の変化、恐怖からの解放、殺到する助けを求める声、確かな支えなどだ」

 

「あるいは」とジャクソンは言った。「I AM運動の信者たちがだまされていないことだ」。彼らはI AM運動の信仰から純粋な利益を得ていた。

 

 I AM運動のカルトの教えのなかに新鮮さと勇気を見いだす人も――そんなに多くはないとしても――いるように思われる。この宗派の信者がサンジェルマンの天界の導きに慰めを見いだすとしたら――私にとってはあやしいかぎりであるが――見返りがないとはとうてい言えない。

 

 そして彼はエドナ・バラードに対する罰は却下されるべきと力説した。

 

 このような人物を起訴しても、それはたやすく宗教的迫害につながってしまう。私は起訴を退け、他の人々の信仰について法的にどうであるか吟味した。

 

 大多数の人々にとっては、それは却下されたわけではなかった。かわりに彼らは第九巡回裁判所に差し戻したのである。巡回裁判所は新しい見方を示した。今回は有罪が確定されたのである。

 しかし戦いは終わったわけではなかった。エドナの弁護士は新たな方面で訴え出た。そして審理はふたたび最高裁へと上げられることになった。

 この最終ラウンドにおいて、アセンデッド・マスターたちは固唾をのんでエドナを見守っていたにちがいない。審理は彼女に有利に進んでいたのだから。彼らは最初の起訴を反古にした。

 しかし新たな方面とは? エドナの弁護士はまたも憲法上の問題を取り上げたのである。今回は、修正第5項、第6項が問題だった。エドナの弁護士は、法手続きと陪審の公平性において保証されるべきものがされていないと主張した。裁判官たちもその意見に同意した。

 1943年までのカリフォルニア州では、大陪審に女性が含まれなかった。つまり、全員男性からなる陪審によってエドナは裁かれたのである。なぜそれが問題なのか。なぜなら、そのような陪審は、半数が女性である彼女の共同体を、代表として裁くことができないからである。男と女は代替することができないと最高裁は言った。互いに替えることはできないのだ。とくに弁護するときに彼らはまったく異なる動きを取るものである。女性陪審はエドナを理解し、共感し、エドナを白とみなすかもしれない。男性の陪審ならその反対に回るかもしれないが。

 エドナはこのように法手続きにおいても、同等の陪審も拒否されていたのだ。こうして彼女への判決は却下されたと最高裁は述べている。有罪判決は無効になった。

 政府はふたたび彼女を告訴することができたはずだ。しかしその選択はされなかった。六年間活動を控えたあと、エドナ・バラードはアセンデッド・マスターたちとのチャネリングを再開した。ふたたび彼らの智慧を人類にもたらすことができるようになったのである。

 

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