チベットとペルシア 宮本神酒男 訳

第2章 ゾロアスター教と中央アジアのその他の宗教の伝来

 

4 仏教が中央アジアから来た形跡

 どのチベットの史書も、仏教がはじめてチベットに伝来したことを示すエピソードに関しては口を揃える。ラトトリ・ニェンツェンの時期、李天子と吐火羅の訳経師ロサンツォの二人はインドからパンディタ・李敬を招請した。このパンディタは国王の前で経典を講じた。ところが当時吐蕃には文字がなかったので、法を授かることがなく、ただ黄紙の書に『仏説大乗荘厳宝王経』を記し、金粉を用いて六字真言や金塔、手印などを加えただけだった。

「礼を尽くし、経典を誦し、お供えをすれば得るものがあり、希求し、加持すればかならず獲得することができるでしょう」

 そういい終わると、中国のほうへ去っていった。

 じつはこの時期のペルシアでは同様の仏教の活動の痕跡があった。唐朝の求法僧玄奘は記す。

「(波剌斯国には)伽藍二三、僧数百があり、小乗を教える説一切有部だった。釈迦の仏鉢はこの王宮にあった」

 フランスの著名な東洋学者ペリオはマニ教が中国に流伝したことを示す資料に関しつぎのように述べる。

「かつて仏教はインド北方の大夏(バクトリア)や東西トルキスタンにあったが、早くからイランの影響を受けていた。いまも中央アジアから経典が発見される」

 仏教のチベットへの影響は、月氏がインド北西部にクシャン王朝を建てたときにはじまった。

「古代中央アジアでは国際交流が盛んだった。中央アジアの文化と芸術について考えるとき、もっとも重要なことはインド、とくにクシャン朝のインドと接触があったことだろう。当時少なからぬ移民が中央アジアからインドへ行ったが、インドから中央アジアへ移動した人も多かった。前者は商人をのぞくと、もっとも多かったのが兵士と官吏だった。一方後者でもっとも多かったのが仏教の僧侶だった。クシャン朝の国王、とくにカニシカ王の保護のもとで、この偉大な古代宗教は中央アジアに伝播した。非常に速い速度でそれは中央アジアから極東へと浸透していった。この活動は長くつづき、チベットの資料によれば中央アジアからチベットへ伝播したのである。

 7世紀前半、アラブのイスラム軍が聖戦を旗印にかかげ西アジア、中央アジアへ侵入し、異教徒である仏教徒は多数の生命を失った。このとき建立されたばかりの吐蕃王朝は仏教を保持する政策をとった。そのため中央アジアの多数の僧侶が吐蕃に亡命した。仏教を庇護することで吐蕃は勃興し、中央アジアの仏教に多大な影響力を持つようになった。敦煌写本P・T960はこのあたりの状況を反映している。その文書には、迫害を受けたホータンの僧侶が艱難辛苦のすえ吐蕃に逃げ込み、救助されたと書かれている。

 8世紀、吐蕃のツェンポがティソン・デツェンのとき仏教が興隆した。インドの高僧を招こうとし、インドラ部の密教大師蓮華生(ペマチュンネ)を招聘した。密教方術を使ってボン教を制圧し、吐蕃において仏教を高め、後世にはニンマ派の祖師と目されるようになった。この大師は中央アジア、西アジアの影響を受けたウッディヤーナの出身だった。今日のパキスタン・ペシャワール地区である。この地区はペルシア文化と中央アジア東部イラン諸語族の言語と文化の影響を受けてきた。とくにペルシア帝国はつねに影響を与えつづけてきたのである。 

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