チベットとペルシア 宮本神酒男 訳

第2章 ゾロアスター教と中央アジアのその他の宗教の伝来

 

5 吐蕃のイスラム教寺院と信者

 ペルシアの古代地理書『世界地域誌』にはラサには「多くの偶像寺(仏教寺)とひとつの清真寺(モスク)がある。そこに何人かのモスリムが住む」と記される。アラブの歴史家ヤフビ(Yakhubi)によると、オマル2世の治世のとき(717720)吐蕃はホラーサーンに使節団を派遣し、総督のジャラーフに伝道師を吐蕃に送ってイスラムの教えを説くよう求めた。日本の森安孝夫はイスラム教と吐蕃の関係についてつぎのように述べる。

「吐蕃がイスラム勢力とはじめて遭遇したのは704年(あるいは702年)のムーサーの乱だった。この乱は新たなアラブ総督の軍隊によって鎮圧されたが、このときから8世紀末まで吐蕃とアラブとの関係は良好だった。715年および717年、吐蕃とアラブはフェルガナで東トルキスタンと共同で軍事行動を起こした。717から718年にかけて吐蕃の使者がホラーサーンの新総督のもとにやってきて、吐蕃にイスラム教を説くことのできる者を派遣するよう要請した。これは717年に就任したばかりのカリフ、オマル2世がトランスオクシアナの諸王子に発布したイスラム教に改宗せよという命令と符合していた。この吐蕃の要求を受け入れ、カリフはサリト・アブダラ・ハナフィ(al-Salit b ‘Abd Allah al-Hanafi)というイスラム教の教師を送った」

 『世界地域誌』25章「トランスオクシアナおよび諸都市」につぎのような記載がある。

「トランスオクシアナの東は吐蕃と接する。南はホラーサーンおよびその周辺地域。西はグス人およびカルルクの辺境。北はカルルク辺境」

 26章の一節。「ハムダド(Khamdadh)、その地にワハン人の偶像寺がある。寺中には少数のチベット人がいる。その左の城砦は吐蕃人が占拠している」

「サマルカンドは大きな村のようである。そこにはインド人、吐蕃人、ワハン人、およびモスリムが住んでいる。トランスオクシアナでもっとも遠い場所である」

「アンデラスは都市である。そこにはチベット人やインド人が住んでいる。そこからカシミールまでは二日の旅程である」

 その11章の「吐蕃および諸都市」には「ラサは小さな町である。多くの偶像寺とひとつの清真寺がある。そのなかに少数のモスリムが住む」

 これらの記述から考えるに、唐朝の時期、吐蕃とアラブはつねに密接な関係があり、使者の往来もあった。イスラム教もチベットにやってきて、根を下ろした。『敦煌写本吐蕃歴史文書』によると、732年、「アラブとテュルギシュの使者が吐蕃朝廷に赴き、王に拝謁した」という。

 モスリムが直接吐蕃にやってきて布教をした以外にも、当時吐蕃とアラブが軍事的に密接な関係にあったため、一部の人(モスリム)は吐蕃対唐、南詔の戦争に参加した。貞元十七年(801)吐蕃軍は現在の雲南で敗北を喫する。

「カムも黒衣アラブおよび吐蕃の首領もみな降伏する。二万首を取られる」

 この戦いにアラブ人が参加していたが、彼らは戦後も吐蕃や中国各地に残った。彼らはイスラム教徒であり、その信仰をもって各地へ入ったのである。

 アラブの作家イブン・ホルダズベフ(Ibn Khordadhbeh)は、『道里邦国志』のなかで、吐蕃時代のチベット人がどれだけイスラム教を信仰していたかについて記している。「各地の民衆が礼拝する方角」という一節のなかで、「吐蕃(Al Tubbat)、突厥地、中国、マンスラ(Al Mansurah)などの人々はカアバだけでなく、東の壁に埋め込まれた黒石にも礼拝しなければならない」と述べている。このようにイスラム教は吐蕃に存在し、流伝していたのである。

 

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