忘れられた洞窟寺院 ティローカグユ壁画 (ミャンマー・ザガイン)  宮本神酒男 

ブッダと十大弟子 

目次 
1 宮廷生活 
  (続)宮廷生活 
2 死の香り 
3 蛇のたくらみ 
4 剃髪 
5 庶民・兵士 
6 馬車に乗って 
7 動物たち 
8 鳥・動物の格子 

土蔵に見える洞窟寺院 

 洞窟寺院というと、ピンダヤ寺院のような切り立った崖の天然の洞窟を利用した、冒険心をくすぐる宗教施設を想像してしまうが、マンダレー郊外ザガイン・ヒルのティローカグユ寺院はそれとはまったく違う。むしろ小さな丘を利用した古墳のようなものを思い浮かべてほしい。この寺院を目の前にしたとき、それは天然の丘というより、大きな蔵のように見える。パーリ語のヴィハーラに近いいわば瞑想寺院である。

 瞑想寺院としてティローカグユ寺院が建設されたのは、考古学の権威、ウ・アウン・トー氏によると、1672年のことだという。当時はタウングー朝(15311752)の時代であり、1635年には都をバゴーから、ザガインに近いインワに移していた。国王はピェ(16611672)からナヤワヤ(16721673)をへて、ミンレチョーディン(16731698)へと移り変わる時期だった。

 国王が死に、あとを継いだナヤワヤもまたあまりにも若くして死んでしまった。新国王が息を引き取る前、情報が外に漏れないよう宮廷をしめ切り、王の妹や宦官、大臣らだけでつぎの国王を選出した。ミンレチョーディンが選ばれたのは、彼が無難な人物、いいかえれば傀儡の国王にするために都合の良い無能人間だったからである。当然ふたりの王子は反対した。反対を表明するや、彼らは兵を送り、警護もろとも無残に殺害した。宮廷は血に染まり、エントランスの屋根まで死体で埋まった。彼らは逃げ出そうとして屋根の上に逃れようとしたのである。

 このようなクーデターまがいの事件が起きているときに、ティローカグユ寺院は建設されたのである。おそらくピェ王のときに、建設ははじまっていたのだろう。また仏教界は王室の血なまぐさい事件とは距離を置いていただろう。


かつて火事もあり、壁画はダメージを食らった。エントランスは防空壕のよう 

 瞑想寺院について説明しておきたい。そもそもテーラワーダ仏教の国であるミャンマーで、大乗仏教国のように瞑想は行われるのだろうか。スパイロによると「ビルマでは、瞑想の実践は他の仏教社会よりも頻度はすくないものの、ある程度は行われてきた」という。

 瞑想(ヴィッパサナー瞑想法)は町から離れたところにある瞑想寺院で行われることが多かった。俗人もまた瞑想を行う僧侶にアドバイスを求め、実践した。彼らは10の戒律を遵守した。

 就寝時間は夜9時で、朝4時に起床した。朝の2時間は托鉢にあてた。一日に3時間は学習をした。一日に一時間は上級僧侶から、ときには寺主から瞑想法を学んだ。スパイロによると、続けて8時間瞑想をする者もあれば、11時半から2時と2時半から5時の二度に分けて実践する者もいたという。

腸内をめぐるような階段 

 スパイロの述べる瞑想法を300年以上前にも実践していたかはわからないが、おおよそ似たような瞑想生活を送っていただろう。ティローカグユ寺院もこのような瞑想生活のために建てたのだとすれば、僧侶たちはこの内部で暮らしたか、あるいは瞑想するときだけこのなかに滞在したはずである。(スパイロが調査をした60年代と比べて、最近は宗教実践者の数が爆発的に増えている。イングリッド・ジョートによると、MTY(マハシ瞑想センター)に属するヨギ(瞑想実践者)の数は100万人を超えたという)

 壁画はたんなる観賞用の美術ではなかったはずだ。第一に、絵を描くこと自体が宗教行為であり、一種の瞑想であったにちがいない。そしてもちろん、ブッダの伝記を見ながら、ブッダの言葉を復習し、それについて深く学んだはずである。



⇒ NEXT 

⇒ HOME