ウイグル族の歴史の深淵(1)

なぜ彼らは街頭でシシカバブを売っているのか

中国に何度か行ったことのある人なら、市場や通りでウイグル族がシシカバブや干し葡萄を売っている光景を目にしたことがあるだろう。彼らはいかにもイスラム圏のガイジン風なのだが、れっきとした中国人なのである。それにしても故郷を離れ、何千キロも離れた町でなぜシシカバブを売っているのだろうか。その答えは、二千年以上にも及ぶ中国・テュルク関係史の向こうにあるだろう。

はじめに

 イスタンブールの公園のベンチに座り、行きかう人々を見ながら、「みんな白人ばかりじゃないか」と嘆息したことがある。ここは千年以上にわたって存続した東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の都コンスタンティノープルなのだ。何年か前J1でプレーしたイケメン・サッカー選手のイルハンやノーベル文学賞を取った作家のパムクを見れば一目瞭然、彼らの風貌はヨーロピアン風である。もちろんトルコの他地域と比較した場合の話だが。

 しかし白人っぽいという見かけ以上に、トルコ語をしゃべるという事実に感慨ひとしおだった。トルコから東へ向かうと、アゼルバイジャン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギスタン、カザフスタンといったトルコ語(テュルク語)族主体の国々を通過し、中国新疆に達する。新疆で漢族を除きもっとも多いのがウイグル族である。甘粛や青海にはサラ族やユグール族などテュルク語族系少数民族が分布する。ロシアに目を転じると、シベリアにもヤクート、クマンディン、カカスなど、いくつものテュルク語族系少数民族が見出される。

 新疆のウイグル族を見ると、ヨーロピアンのような顔立ちもあれば、漢族とおなじような顔立ちもある。ホータンでは、かつてヨーロッパ語族のサカ人が住んでいたためか、ヨーロピアン風の顔立ちが目立ったが、甘粛に近い東のハミでは漢族と見分けがつかない人も多かった。何千キロも離れ、顔立ちもさまざまなのに、おなじトルコ語系統の言語をしゃべるのはなんと不思議なことだろうか。

 かつてトルコから来日した文化人と話をする機会があったが、彼によると、互いの言語を使ってのウイグル族との意思疎通は可能だという。トルコ国内にはウイグル族の独立運動組織の拠点があるので、接触する機会があったのだろう。長く帯上に分布したトルコ系民族は、たしかに古代においてはひとつだったのである。

 太古においては、トルコ人とモンゴル人は区別しがたかっただろう。しかしこの二千年以上のあいだにトルコ人はアナトリア半島や東ヨーロッパにまで居住域を広げた一方、モンゴル人は13世紀にあれほどの世界帝国を築きながら、アフガニスタン東部のバスラ人やカスピ海沿岸のカルムク人などを除くと泡のごとく消えてしまった。

 はっきりしないが、史書上、前3世紀頃に登場する匈奴は、トルコ・モンゴルが分かちがたかった時代の産物、つまり遊牧民族複合部族国家だったように思える。それから千数百年後、ティムール朝(1370−1507)の支配者がチンギス・ハンの直系の子孫を自負しながらも、テュルク語をしゃべっていたように。ちなみにティムール朝の王族出身のバーブルはウズベク人に中央アジアを奪われ、活路を見出すべくアフガニスタン、さらにはインドへ向かい、ムガール帝国を築いた。こうして歴史はダイナミックにつながり、またときには繰り返すのである。

 匈奴は後漢が成立した直後に北匈奴と南匈奴に分裂する。南匈奴は親漢的であり、北匈奴は圧迫されて西方に移住していく。その後4〜6世紀頃、ヨーロッパを荒らしまわったフン族が匈奴だとする説は理がかなっているように思える。匈奴は現在のピンインではションヌ(xiong nu)だが、当時の音はフンヌに近かっただろう。そもそも、匈奴でなかったら、ヨーロッパの広域で荒らしまわるほどのエネルギッシュなモンゴロイド系民族(切れ長の目をしていると描写されているのでモンゴロイドであることは間違いない)の説明がつかない。

 ウイグル族の先祖を考える場合、国家レベルの集団名と思われる匈奴ではなく、丁零や高車といった部族国家を取り上げるべきだろう。商(殷)や周の時代に鬼方という丁零の祖先とみられる民族名が現れるが、詳細な記録が残っていないので、ここでは触れないことにする。ただ言えることは、先史時代から、トルコ系・モンゴル系の祖先にあたる遊牧民族がモンゴル高原あたりに勇躍していたのである。

 新疆となると、話がこみいってくる。数十体ものミイラが発掘されているが、そのほとんどが東地中海型のヨーロポイド(欧州人)と鑑定されている。時代は長期にわたり、古いものは3800年前とされる。新疆の大小数多くの博物館が目玉としてミイラを展示しているが、ウルムチの省博物館のもっとも有名な男女のミイラを見ると、まるで北欧人のようである。彼らは中国の史書では塞種、すなわちサカ人と呼ばれた。ギリシア人の言うスキタイ人(ローマ時代になると北方の塞外民族全般を指すようになる)とおそらくおなじで、インド・ヨーロッパ語族の祖先と見られる。

 ミイラのほとんどがヨーロッパ系というのはどういうことだろうか。モンゴロイドがこのあたりにやってきたのは、わりあい最近ということだろうか。ひとつ考えないといけないのは、埋葬のしかたの違いである。サカ人はきとんとした墓地を作り、墓に埋葬した。よって墓地の遺跡を発掘すると、砂漠気候のなかでミイラ化した遺体が見つかるわけである。いっぽうでトルコ人やモンゴル人は墓地にこだわらなかったのではないか。新疆東部のハミ市郊外からは、新疆北部のアルタイやキルギスタンで数多く発見されている石人(環状列石の入り口に置かれた古代の石像)が見つかっている。石人はトルコ人によって作られたと見られている。彼らは砂漠地帯には進出しなかったが、その周辺の草原地帯には勢力を伸ばしていたのだろう。

 

丁零と高車

 『史記』「匈奴列伝」によると、丁零は前3世紀頃にはバイカル湖あたりにいた。匈奴の北である。匈奴は冒頓単于(在位前209−174)の時期、勢力を一挙に拡大し、丁零人のほとんどは奴隷となった。前71年、匈奴の単于は兵を率いてイリ川上流の烏孫を攻めたが、その帰途、大雪に見舞われた。その機会を逃すまいと、丁零は烏孫、烏桓を味方に引き入れ、反旗を翻し、匈奴の兵士数万人を殺した。この反乱をきっかけに、匈奴は一挙に力を失い、丁零人など奴隷状態にあった人々の一部は甘粛の河西走廊へ逃亡した。また丁零人の一部は前漢に帰服し、軍隊に入ったという。

 西暦87年、匈奴は南北に分裂。丁零は南匈奴や鮮卑などとともに北匈奴を挟み撃ちした。北匈奴は西へ敗走するが、彼らがフン族ではないかという説があるのは、上述の通りである。

 三国時代、丁零の多数はバイカル湖周辺にいた(北丁零)が、一部は烏孫より西のほうへ移住した。また一部は南下し、中原に流入したが、丁零による単独政権を作るにはいたらなかった。北魏では軍役につくことが多かったが、しばしば反乱を起こしたため、頭痛の種となることが多かった。

 丁零は南北朝の時代、高車(あるいは勅勒。ピンインでchile)と呼ばれた。バイカル湖周辺に分布していたが、多くは新疆北部へ移動していった。この当時高車(丁零)は六氏十二姓を擁したという。それに含まれない部族を含めると、合計23種にも及んだ。人口も二百万を下らず、まとまれば国家を揺るがしかねないほどの大勢力だったのである。

 北魏の道武帝(在位386−408)は高車の本拠地であった鹿渾海を攻め、さらに内蒙古狼山の高車も攻略した。バイカル湖周辺を除いた高車の地域はすべて北魏の支配下に入ったのである。429年、北魏は帰順した高車兵一万人をバイカル湖に送り、数十万の高車人が降伏した。帰順しなかった副伏羅部の高車人は、モンゴル系の柔然(蠕蠕)の支配下にあった。

 副伏羅部の高車人は、柔然が内紛によって混乱した機会に乗じて西方へ移動し、トルファンあたりの車師前部に落ち着いた。491年には高昌国(トルファン)を滅ぼし、敦煌の張孟明を高昌王に立てた。のちに玄奘法師が高昌国を訪ねたとき、歓待したのは漢族王(麹氏)だった。高昌国はもともと漢族の難民が多いことで西域のオアシス都市のなかでも特殊である。ウイグル族が多数を占めるのは9世紀、天山ウイグル王国の一部になってからのことだ。

 

突厥

 北朝末頃から、高車は鉄勒と呼ばれる。鉄勒も、勅勒も、高車も名前こそ違うが、おなじ民族を指すだろう。前二者はテュルクの音訳だろうし、高車は造車を得意としたことからそう呼ばれた。

 『隋書』の作者自身が混乱し誤謬を犯しているが、石碑などから、突厥は鉄勒から発した同族の民族ということがわかっている。史書にその名がはじめて見えるのは『周書』で、532年、突厥は毎年結氷後に川を渡り、西魏を侵略していたという記述がある。突厥は6世紀半ばから急速に力を伸ばしてきた。

 突厥は狼をトーテムとするジュンガル盆地北部の部落だった。姓はアシナ(阿史那)である。首領アシナは西魏と誼を通じたいと願い、それに応じて545年、西魏文帝は使者を突厥に送った。翌546年、突厥は鉄勒諸部落を併呑して大きくなり、主従関係の主である柔然に婚姻関係を申し込んだ。柔然の可汗が激怒して断ると、突厥の首領アシナ・トゥメンも怒り(逆ギレというわけだ)西魏に婚姻関係を申し込んだ。551年、西魏の長楽公主が降嫁し、願いはかなった。そして翌552年、突厥は柔然に攻め入り、滅ぼし、突厥汗国を樹立、アシナ・トゥメン自身イリ汗を称する。

 五胡十六国時代は大小さまざまな国が乱立するが、そのなかでも鮮卑・拓跋氏の北魏は中原だけでなく現在の新彊まで版図に収め、王朝と呼んでも差し支えないほどの勢力を誇った。しかし534年、東西に分裂。西魏はしばらくして北周にとってかわられ、さらに隋にとってかわられる。その意味で衰退していたとはいえ、西魏はもっとも正統性のある政権だった。新興勢力だった突厥の立場からすると、柔然と衝突するのは計算ずみのことであり、はじめから西魏と手を結びたいという考えをもっていたのかもしれない。西魏としても、北方の国境が安泰であることは、東魏との争いを有利に進めるためにも不可欠だったのだ。

 突厥は柔然を破ったあと、木杆可汗(在位553−572)の頃、さらにペルシアと手を組み、西方のエフタルをも破る。エフタルはほかの章でも述べたように、白フンとも呼ばれ、インド・ガンダーラ地方にまで勢力を伸ばしていた。エフタルに勝ったことにより、中央アジアまで突厥の版図は広がった。さらに東は契丹などの諸部落を併呑し、中央アジアから東モンゴルまで広がる巨大帝国を樹立したのである。

 しかし木杆可汗の頃、中央アジアに進出した突厥勢力は、イリ可汗の弟、室点密(在位562−576)のもと、ほぼ独立状態にあった。便宜上彼らは西突厥と呼ばれる。568年には、東ローマ帝国から派遣された使者ゼマルクスがエクタグ山(おそらくアルタイ山)の汗庭で室点密に謁見している。583年、独立を宣言し、正式に東西突厥が成立した。

 609年、隋の煬帝は西突厥の処羅可汗を現在の甘粛民楽県に呼ぶが、処羅可汗はそれに従わなかった。そのときたまたま処羅の叔父にあたる射匱が通婚を求めて隋朝に使者を送っていたので、煬帝は処羅を捕らえて殺すよう命じた。処羅が捕らえられたあと、射匱自身が可汗を号した。射匱可汗と(619年に跡を継いだ)息子の統葉護可汗の時代が西突厥の隆盛期だった。庭汗の北牙を現在のタシケント郊外に、南牙を現在のアフガニスタン・バルフに置いた。玄奘法師が628年に会ったのは、統葉護可汗だった。そのとき可汗は二百人以上の貴人を連れて狩猟をしていたという。

 玄奘法師が来る三年前、西突厥は唐に通婚を申し込んでいた。唐の高祖は大臣裴矩の進言を取り入れ、「遠くと交わり近くを攻める」という方針を立てていたので、ほぼ話はまとまりかけていたが、東突厥の妨害が入り、実現しなかった。

 その後、権力争いが激化するが、651年頃、沙鉢羅可汗が争いに勝ち、全権を掌握する。その勢いで唐の庭州などに攻め入ったため、高宗は三万の兵を送り、撃退している。

 657年、唐の大将軍蘇定方率いる大軍が西突厥に攻め込んだ。イリ川東で沙鉢羅可汗率いる十姓部落(カザフスタン東部バルクシュ湖から新彊西北部にかけての突厥部落)の10万の軍が迎え撃つが、まとまりのない烏合の衆が組織立った唐軍にかなうはずもなく、撃破され、死者は数万人にも及んだ。こうして西突厥の領土は唐の版図にそのまま編入されることになる。

 特筆すべきは、666年頃、突厥の王族アシナ・ドゥチと李遮匐が吐蕃に帰順したことである。数年後には、アシナ・ドゥチは将軍として、李遮匐は都督として、もと突厥の兵を率いて、安西都護府(当時はトルファン)を攻めている。吐蕃もまた大帝国になるためには、唐やその他の強大な王朝や国と同様、外人部隊を取り入れることが不可欠だったのだ。

 西突厥のアシナ氏族は絶滅し、その領域も唐の版図のなかにゆるやかに併合されてしまったが、烏質勒率いる突騎施(テュルギシュ)部落が勃興し、多くの国が従った。唐朝は烏質勒を西河郡王に封じようとしたが、死んでしまったので、長子の沙葛が跡を継いだ。しかし嫉んだ弟の遮弩が東突厥の黙啜に救援をもとめ、兄を捕らえた。ところが黙啜は兄とともに弟をも殺してしまう。

 そこであらたに立ち上がったのが突騎施の一族である蘇禄だった。蘇禄は人望が厚く、十姓部落(西突厥諸部落)はみなしたがった。周辺の諸国も通じようとしたので、蘇禄は三国(唐、吐蕃、東突厥)の娘を迎え、可敦(カトン)、すなわち后妃とした。しかし年をとると次第に諸部落の支持が少なくなり、バガ・タルカンによって殺されてしまった。

 東突厥もまた衰退し、745年、ウイグルによって滅ぼされた。

 

ウイグル帝国

 唐代武徳年間(618−626)、漠北には鉄勒諸部落が散在していたとして、『旧唐書』は15の部落を挙げているが、そのうちのひとつがウイグルだった。トルコ・モンゴル系の部族は、たとえ弱小であっても、強いリーダーが現れたりすると、突然勢力を伸ばし、強大な部族連合国家を形成することがある。

 ウイグルは首長が吐迷度のとき勢力を伸ばし、648年、アラシャン山を越えて黄河に達した。また開元年間(713−741)には涼州都督を殺し、長安と西域諸国を結ぶ幹線道路をおさえた。さらにバシュミル(抜息密)とカルルク(葛邏禄)という力のある部落を吸収し、11の部落の連合体に膨れ上がった。

 744年、パシュミルを撃破したあと、首長のヤブグ・イルテベルはみずからクトゥルグ・ビルゲ・クル・カガン(可汗)と称した。唐は冊立して懐仁可汗という称号を下賜した。ウイグル帝国の第一代の可汗である。

 ある重大な事件をきっかけに、ウイグルと中国との関係は急展開を見せる。ウイグルは、匈奴や突厥とはまったく違うポジションを得ることになるのである。

 それは755年に起こった安史の乱である。

 しかし安史の乱について説明する前に、751年のタラスの戦いについて軽く触れておきたい。

 高句麗人の血を引く唐の将軍高仙之は、石国(タシケント)の国王をだましうちで殺したことから恨まれ、石国人が呼んだアッバース朝アラブとタラスで戦うことになった。このとき唐側のカルルクが寝返ったため、唐は破れ、三万人の兵が殺され、2万人の兵士が捕虜として連行された。唐軍の大半はウイグルから徴用された者たちだったと思われる。最前線に置かれたのはあらたにウイグル部落に加わったバシュミルとカルルクだった。寝返るのは当然だろう。ウイグルとカルルクはその後ライバル関係となるので、カルルクの裏切りは大きな意味を帯びている。また、この戦いを通じて製紙技術などが伝わったという東西交流の面ばかりが注目されるが、唐の国運が傾くきっかけになったことも無視できない。

 タラスの戦いと直接関係があるかどうかわからないが、8世紀後半、九姓鉄勒、すなわちトクズ・オグズは中央アジアに移動している。現在のトルクメニスタンの祖先である。オグズは11世紀、現在のイラン、イラク、シリア、アゼルバイジャン、トルコを領土に含む大帝国、セルジュク帝国を建国する。

 さて、安史の乱はタラスの戦いのわずか四年後に起きている。安禄山は安息国(パルティア)あるいは康国(サマルカンド)出身のいわゆる蕃将だった。性格は明るく、力士のような巨漢で、玄宗や楊貴妃から全幅の信頼を得ていた。三つの節度使をかけもっていたというから、軍の重鎮だった。しかしライバルであった楊国忠の讒言によって身の危険を感じ、追い詰められ、反旗を翻すのである。

 安禄山の勢いはすさまじく、都長安も風前の灯となった。皇帝である玄宗が都落ちをするという前代未聞の事態となったのである。そして楊国忠は部下によって殺され、愛妃楊貴妃をも殺さざるをえなかった。

 唐の滅亡の危機を救ったのはウイグルだった。

 756年、粛宗は即位すると、ウイグルに援軍をもとめ、またウイグルの皇女を娶っている。唐からすると強大な隣国に全面的に頼るのはリスクが大きかったが、背に腹はかえられなかった。ウイグルとしては唐の公認を得ることで、旧西突厥領地の支配権をより堅固なものにできるとふんだにちがいない。またタラスの戦いで多数のウイグル兵が参加し、戦死したことにたいする贖罪の意識も生じていただろう。

 ウイグルは太子のヤブグを派遣し、四千の兵馬を送った。唐側は広平王と郭子儀が軍を率いたが、形勢が悪いときにも、ウイグル軍がやってきて敵を撃退した。唐軍は十万以上の首をとり、死体は累々と三十里以上もつづいたという。

 『旧唐書』によると、帝は詔のなかで、異例と思えるほどヤブグを礼賛している。

「(ヤブグは)とくべつに英姿を天から授かり、人よりぬきんでていて、人知れぬ計略を生んだ。その言はかならず忠信であり、その行ないは温良をあらわし、その才は万人にも匹敵し、その位は北方諸蕃族の筆頭につらなっている」。

 そして帝は幼少の王女をウイグルの可汗に降嫁させている。蕃族に降嫁させるのは珍しくないが、「天子の実の娘」は異例だと唐の特使は述べている。しかしまもない759年、可汗は死に(長子ヤブグもすでに他界)公主はあやうく殉死させられるところだったが、なんとか難を逃れ、唐に帰還することができた。

 安史の乱は九年で終息する。安禄山は息子安慶緒に、安慶緒は武将の史思明に、史思明は息子の史朝義に、史朝義は安禄山の部下李懐仙に殺される、というように権力争いのなかで自壊していったのである。

 上に述べたようにウイグルに援助を依頼したのはリスクを伴っていた。実際ウイグル兵たちは東京(洛陽)に入ると、略奪の限りを尽くした。三日間で死者が数万人も出たという。夷は夷でもって制す、毒には毒を、ということなのだが、もうだれが賊だかわからない状態である。『旧唐書』にも「(ウイグルは)賊が平定されたことを理由に、ほしいままに残忍なふるまいをしたので、男女はこれを恐れて、みな(洛陽の)聖善寺および白馬寺の二寺院へ登って避難した。(二寺院を)焼き払ったので、死傷者は一万人を数え、数十日も火焔はやまなかった」と書かれている。

 当時のできごとのなかで、もっとも意外であり、謎めいているのは、安史の乱鎮圧にもっとも功のあった唐の将軍僕固懐恩の反乱(764−765年)だろう。僕固懐恩もまた蕃将であり、鉄勒の僕個(僕骨)部落の出身である。僕固懐恩の軍にはウイグル、チベット(吐蕃)、吐谷渾、タングートなどが合流し、二十万以上の大所帯になっていた。一方で洛陽は灰燼に帰し、長安も疲弊していたので、唐朝を倒す好機とみたのかもしれない。実際、直前(763年)には吐蕃によって短期間ながら長安は支配されたのである。

 もし僕固懐恩が命を落とすことがなければ(どうやって死んだのかわからない)歴史は大きく変わっていたかもしれない。

 ところでヤブグ太子の弟で、僕固懐恩の娘を妻とし、唐から長々しい称号をもらったウイグル国の牟羽可汗(ボグ・カガン)は、興味深い役回りを果たしている。763年、マニ教を国教としたのである。中国側の資料には記載されていないので、石碑と『牟羽可汗入教記』が見つかっていなかったら、歴史の闇の中に埋没していたかもしれない。当時仏教やゾロアスター教は広く浸透していたが、そこへあらたにマニ教が加わり、もっとも信仰されることになるのである。

 790年頃、吐蕃はウイグル支配化の北庭都護府を陥れた。ウイグルの重税、徴発に苦しめられていた沙馳(さだ)突厥やカルルク、白服突厥は吐蕃に喜んで降った。ウイグルの大臣イル・ウグシは北庭を取り返そうとしたが、返り討ちにあってしまった。この機に乗じてカルルクは新彊東部の浮図川を奪取し、カシュガルをも占拠する。

ウイグル帝国にとっては正念場を迎えたといえる。北からはカルルク、南からは吐蕃が領土を侵食しようとしていたのだ。

そこで唐と通婚関係を結び、いわばウイグル・唐同盟を結ぼうとする。唐もまた吐蕃と西域や中央アジアをめぐって長年争い、南詔との戦いもつづいていたので、基本的には歓迎すべき申し込みだった。しかしウイグルに何度も都を荒らされた苦い記憶があるので、公主の降嫁を許諾するかわりに、唐に対して臣下の礼をとること、使節の人員の数を二百人以下にすることなど、五項目の条件をのませた。こうして咸安公主が合骨咄禄可汗のもとに降嫁し、可敦(カトン)となったのである。

 

ウイグル帝国の滅亡

 咸安公主没後、ウイグルはふたたび粘り強く降嫁を願い、822年、太和公主がカサル・タギン(可汗)のもとに嫁いだ。

 しかしその頃からウイグル内では内紛が目立つようになり、840年、クルグ・バガという将軍はひとたび逃走したあと、10万騎のキルギス兵とともに戻ってきて、ウイグル城を焼き払う。

 ここにウイグル帝国はあっけなく滅亡してしまったのである。

 ウイグル人は各地に逃亡した。西方へ逃げた三つの集団のうち、大臣サブチが引き連れた部隊はカルルク領内へ、残りは吐蕃や安西(クチャ)へ向かった。南方へ逃げたのは、オルムズ率いる部隊と烏介可汗率いる部隊だった。

 オルムズは唐に投降し、左金吾大将軍に任命され、帰義使として山西太原に落ち着き、辺境守備にあたった。李という姓も賜った。

 烏介可汗の部隊は次第に数が少なくなり、三千人にまで減ったところで宰相が烏介を殺し、その弟をあたらしい可汗に選んだ。しかしさらに五百人にまで減り、モンゴル東部の室韋に頼った。ウイグルの残余は室韋によって七つに分けられ、室韋七姓と呼ばれたが、ほどなくキルギス七万の兵に屈服した。

 新旧唐書には記されていないが、『五代史』『宋史』によると、甘州、西州、高昌に逃れたウイグル人が建てた国は天山ウイグル王国と呼ばれる。

 西へ逃げたウイグルの一部はパミール高原を越えてさらに西へ向かった。彼らは中央アジアから新彊西部にわたる大国、カラハン朝(ハーカーン朝 9世紀半ば−1211)を建て、カルルク人を統治したと思われる。もっとも、カルルク人の部族連合という説も捨てがたいが。カラハン朝は1041年に東西に分裂、その後1089年に、おそらくカルルク人の寝返りがあってセルジュク朝に敗れ、隷属国家となる。1131年にはカラキタイ(西遼)に破れ、東カラハーンはカシュガルのみをかろうじて残すことになる。1212年、ホラズム・シャー朝によってサマルカンドが陥落し、西カラハンは滅亡。1221年、カラキタイを破ったナイマン部のクチュルクにカシュガルが乗っ取られ、カラハン朝は完全に消滅した。このあたりの事情はテュルク民族のイスラム化とも関係するので、詳しくは後編で論じたい。

 9世紀から11世紀はじめにかけてのカラハン朝についてわからないことだらけなのは、記録の国、中国としては不本意だろう。カラハン朝カシュガルの歴史家アブドゥル・ジャフェル・アルマイ著『カシュガル史』(11世紀)が散逸してしまったということもあるが、唐が弱体化し、五代の時代をへて、北宋が興るまで、西域外の情報を入手する余裕がなかったのだろう。 

 ちなみに中国の一部の歴史家はカラハン朝の可汗が「桃花石」という中国を表す称号を用いていることを理由に「中国の民族」だと主張しているが、この中華思想的発想は実りのないものといえる。桃花石という漢語を使ったのは1220年代前半に西域を旅した丘長春(長春真人)であり、カラハン朝の可汗はタフガチ(Tavgach)である。タフガチはもともと中国を指すことばではあったが、一説には拓跋、一説には唐家子が語源である。カラハン朝の王族がどういう意図でこの語を用いたか、我々は知らないのだ。

 

チベット支配下のホータン

 チベット(吐蕃)は7世紀前半、ソンツェンガンボの時代に台頭し、突然大国になったような印象がある。私見だが、ヤルルン朝チベット(吐蕃)は現在の西チベットを中心とした大国シャンシュン(中国の史書上羊同と呼ばれる)を併呑することによって急激に版図を広げることができたのではないか。

 古代より阿里(ンガリ)地方とホータンを結ぶ崑崙山脈越えのルートは栄えていたが、シャンシュンの統制化にあった。吐蕃がシャンシュンを破ることによってホータン、さらには西域への道が開けたのである。

 吐蕃は665年にホータンを攻略し、675年まで占領している。685年頃にはまたホータンの域内にあった安西四鎮を支配下に置くが、692年には手放している。本格的にホータンを治めたのは、791年頃から850年頃のおよそ六十年間である。

 現在のホータン(新彊和田)から北へ200キロほどタクラマカン砂漠の中を進むと(最近砂漠公路ができて交通の便はよくなった)紅白の双子の丘がある。紅の丘の上にあるマザタグ遺跡から大量の木簡と玉猿の置物が出土している(木簡に関してはF・W・トーマスの詳細な研究がある)。あきらかにこの丘はチベットの城砦だったのである。常時百人か二百人の兵士が丘の周辺に駐屯していたのではなかろうか。丘を取り囲む広大な胡楊(ポプラ)にはいまもイノシシが棲んでいる。私はそれが駐屯していたチベット兵の食料であったイノシシの子孫ではないかとにらんでいる。
 ホータンに駐屯していた吐蕃の官吏の名称も伝わっている。マクポン(将軍 dmag pon)や節(rtsis rje)、軍事長(dpung pon)などである。

 当時のホータンの住人はウイグル族ではなく、サカ人(東部イラン系)であったといわれる。(ただし『魏書』はホータンのみ胡、すなわちイラン系ではないとあえて記しているので、断言は避けたい)彼らはのちカラハン朝の支配化に置かれた後、次第にウイグル語を話すようになり、イスラム教に改宗した。

 850年、沙州(敦煌)の張議潮が支配者の吐蕃に対し反旗を翻し、河西(甘粛北部)を取り戻し、翌年にはウイグルとともにホータンからチベット人を駆逐した。そのことは敦煌文書からも確証が取れる。難を逃れたチベット人たちは西チベットへ亡命し、13のカル・モン部落(sKal Mon stong sde)を形成するのである。(Vitali 1996
 

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