マセナルティー スーフィズムとイスラムの関係について教えてください。
ヴォーン=リー スーフィズムはしばしば、イスラムの心と呼ばれます。20世紀のはじめ、ハズラト・イナーヤト・ハーンという名のインド人スーフィーがヨーロッパ、そしてアメリカにやってきたおかげで、はじめてイスラム教徒以外の西欧人がスーフィズムと接することができるようになったのです。彼はスーフィーの教えの真髄にある普遍性を強調しました。尋常ではない何かが、われわれの伝統のなかに目覚めました。スーフィーの血統、すなわち精神的な師の系譜は、ダイレクトに予言者ムハンマドとつながっています。
私自身はナクシュバンディー教団のスーフィーの系譜につらなっています。この教団は「静かなスーフィー」として知られています。というのもわれわれは静寂のなかで実践をおこなっているからです。ほかのスーフィー教団のように音楽やダンスを用いたりはしません。
19世紀後半、ナクシュバンディー・ムジャディディー教団(ナクシュバンディー教団のインドの支系)のひとりの導師が、伝統を北インドのヒンドゥー教の家族に委ねました。これはきわめて特殊なできごとです。このヒンドゥー教の家族に二人兄弟がいました。弟の息子が私の師イリーナ・トゥイーディーの師なのです。イリーナはこのスーフィー教団で学んだはじめての女性となりました。
師は彼女に修行したことを日記に書き残すよう命じました。それが古典的な書『火の娘 スーフィーの師のもとでのスピリチュアル・トレーニング日記』となったのです。師はまたこの教えを西側に伝えるよう命じました。1966年の師の死去のあと、それは実行に移されました。
伝統的にスーフィズムはイスラム教のエソテリズムの真髄といった見方があります。スーフィズムはイスラムより古いという見方もあります。それがスーフィズムと呼ばれるずっと前、それは古代の智慧でした。その名は初期のスーフィーたちが着ていた白い羊毛の衣を象徴するスフ(suf 羊毛)からきています。何世紀もたってからそれはイスラム教に統合されたのです。スーフィズムはイスラム教のもとで花開き、発展しました。
スーフィズムを西側にもたらしたもうひとりの立役者は、アフガニスタン人作家で導師のイドリース・シャーです。彼は『スーフィー』(The Sufis)というとても大きな影響をもたらした著作を送り出しました。彼はまたスーフィーはたんなるイスラム教徒ではないという信仰を堅持しました。
マセナルティー 米国ではしかし、大多数の人がスーフィズムのことを知りません。
ヴォーン=リー でもルーミーを読んでいますよ。
マセナルティー たしかにそうですね。私もルーミーからヒントをもらっています。
ヴォーン=リー あなたはおそらくコールマン・バークスのすばらしい翻訳で読んでいるでしょう。バークスはルーミーの詩を西欧の聴衆に紹介するというたいへんなことをやってのけました。彼は聖なる愛の普遍的な性質を強調しています。それはルーミーのテーマであり、スーフィズムの核となるものでもあったのです。しかしルーミーが書いたものにはクルアーンからの引用がたくさんあります。なぜならルーミーはシャムズと出会う前、神学の教師だったからです。ルーミーはクルアーンに夢中になっていました。ルーミーの詩はすばらしいのですが、それは西欧の読者が親しみやすいように編集されたバージョンだったのです。
マセナルティー 思うに西欧人の多くはイスラムにたいして抵抗感を持っています。それはイスラム教の女性の扱い方やより極端な原理主義的要素が多いからでもあります。でもスーフィズムはこれらの問題とは直接関係ありません。
ヴォーン=リー 西欧のいくつかの教団のなかで実践されているスーフィズムは、心と神の関係を取り扱う本質的に神秘主義の道なのです。それはスーフィーがいとしい者と呼ぶ神との関係を見出すために、自己のもっとも深奥の部分へと入っていくのです。それはまさに恋愛なのです。神に到達するためにはさまざまな道があります。この旅を恋愛として経験する人は、この道に惹かれていきます。というのも、それはいかなる形、どちらの性をも超えたものであり、ダイレクトに心や魂に語りかけるからです。ルーミーはまさにそのようにダイレクトに語りかけました。だからこそ西欧の人々の心を動かしたのです。彼は神の愛を必要とする人たちに、また渇望している人たちに語りかけるのです。スーフィズムはこのように渇望した人々をいざなう道なのです。
マセナルティー 私の理解が正しいなら、スーフィズムは特別なドグマである必要はないのですね。
ヴォーン=リー 初期のスーフィズムの定義のひとつは「形のない真実」でした。初期の偉大なるスーフィーはいいました。「スーフィズムは、はじめは心痛である。それからのちにそれは書くべき何かになる」と。ほんとうにそれは心の中の渇望だったのです。興味ぶかいことに、渇望は伝統的に愛の女性の側だったのです。満たされるのを待つコップだったのです。スーフィズムは魂の女性の側面に話しかけるのです。エソテリズムの伝統のなかで魂は神の前でいつも女性でした。
インドの神秘主義詩人ミラバイの愛らしい物語があります。彼女は王女だったのですが、王宮を出て放浪する神秘詩人になりました。ミラバイは彼女の「黒い神」クリシュナをあつく信仰しました。あるときクリシュナにささげられた聖なる森のなかを放浪しているとき、ジヴ・ゴースヴァミという有名な神学者にして苦行者に会いました。ところが彼はミラバイが黒い神の寺院に入るのを拒絶しました。なぜなら彼女が女性だったからです。ミラバイは彼のことを恥知らずと思い、つぎのようにいいました。「神の前ですべての魂は女性ではないのですか」と。ジヴ・ゴースヴァミは頭を下げ、彼女を寺院に通しました。神の前で降伏し、頭を下げるこの魂の女性性こそスーフィーが語りかけるものなのです。愛する者は彼女の愛しい人を待ちます。愛しい人がやってくると、ふたりは出会って溶け合います。そのときふたりはあまりにも親しく、言葉を必要としないでしょう。愛する者は、神の愛のとほうもない至福に浸され、射抜かれた女性なのです。
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