マセナルティー だれもが師から学ぶ機会があるということでしょうか。

ヴォーン=リー 精神的な教えには異なるレベルがあります。スーフィーが言うには外部の師はつねに内部の師を指し示し、もっとも偉大なる師は人生そのものだとのことです。個人の精神的な導師は、瞑想のより深い状態を経験したい人や精神的本質の内部に深く入り、スーフィーが心の部屋と呼ぶところまで行きたい人のために存在するのです。しかしこの旅はほとんどの人が実際に興味を持っているものではありません。それはとてつもなく大きなエネルギーと忍耐力を要求するものなのです。ひとつの人生がまるごと必要となってくるのです。

 さて、多くの人にとって精神的成長をとげる機会はあるでしょうか。あります。精神的ガイダンスにはさまざまな形があります。多くの場合、それは本かもしれません。何年もの間、シェークスピアは私にとっての師でした。カール・ユングもわが師のひとりでした。心の底から私はユングを称賛しています。ユングは心の旅をし、それについて書きました。魂の内なる旅はとてもリアルであるとユングは言いました。なんと革命的な考え方でしょうか。ユングを学んだおかげで、私自身のなかや夢の中に元型のイメージを見たとしても頭がおかしくなっているわけではないことを学びました。それらの意味について理解するようになったのです。

 師のあらわれかたは、さまざまです。もしあなたが仏教に惹かれるなら、仏教の師を探すことになるでしょう。心をダイレクトに研究したいのなら、あなたはスーフィーの師を探すかもしれません。キリスト教のなかで成長していくのなら、トマス・キーティング神父らに感謝しなければなりませんが、その伝統のなかで、あなたを助けてくれる導師を探すことになります。

マセナルティー そうしてたとえば、イエスやシヴァといった非物質的な存在や、あなた自身のような、生きている師を選んだり、探したりするのでしょうか。

ヴォーン=リー そのとおりです。思い出してください。さまざまな師がいます。西欧にはたくさんのスピリチュアルな師がいるのです。かれらは外に出かけて、レクチャーをし、人々に触れます。アディヤシャンティなどはいい例でしょう。しかしかれらは生徒たちと個人的な関係を持つことはありません。それはかれらの仕事ではないのです。かれらがまずするべきことは、人々を目覚めさせるスピリチュアルな教えを与えることであり、本質のなかで生きていくことなのです。
 個々のスピリチュアルな責任をまっとうすること、すなわち師・弟子の関係を遂行することは、かなり異なっています。それはまさに時間を要することであり、師と弟子の双方に多大な労力をかけさせるものなのです。それはまたとても親密な関係でもあります。昔から言われていることですが、あなたは師を探し当てられません、師があなたを探し当てるのです。あなたの準備が整ったとき、師はあなたの前に現れるのです。

 西欧において、師と弟子の関係は誤解されているように感じます。不幸なことに、原因の一部はキリスト教教会にあるように思われます。聖書にはとても感動的な場面があります。イエスの死後、彼の墓の近くでマグダラのマリアがイエスと会う場面もそうです。はじめ彼女はイエスを庭師と間違えます。するとイエスはこう言います。「女よ、汝はなぜ泣いているのか」と。マリアはそれがイエスであることに気づき、「ラボニ」と言います。ラボニとは師という意味です。ここの2、3行にわれわれは伝統的な師と弟子の関係を見ることができます。あきらかに彼女はイエスのお気に入りの弟子だったのです。
 この墓での出会いと起き上がったキリストを彼女が最初に見たことを、キリスト教教会が見逃したはずがありません。しかし彼女が女性であったゆえ、その意義が十分に説明されてこなかったのです。ここにわれわれは弟子を持つ精神的な指導者(師)の輝かしい関係を見ています。マグダラのマリアは弟子のなかでも最愛の弟子といえるのです。しかし悲しいことに、師と弟子の関係は埋められ、かわりに教会は男性が支配するヒエラルキー社会となってしまったのです。この親密な、人間的な、同時に個人を超えた、尽きることのない愛と信仰に満ちた関係が無視されてしまったのです。

マセナルティー でもほかの伝統においては、この関係が強く残っている場合もありますよね。なぜわれわれはそれらから学ばないのでしょうか。

ヴォーン=リー 60年代から70年代にかけて、インドからたくさんの精神的指導者が西欧にやってきました。しかし西欧はこの師と弟子の関係について理解することができませんでした。それは個別のこととなり、間違って利用されることもあり、混乱をまねきました。多くの人がネガティブな経験をすることになってしまったのです。この種の関係はわれわれの文化にはありません。そのため多くの人に困難をもたらすことになってしまいました。



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