マセナルティー 神秘主義者になるのはごくわずかな人だけでしょうか。

ヴォーン=リー 神秘主義者は生まれながらの神秘主義者しかいないといわれます。わたしの師は<神に焼き印を押された>と表現しました。神に属する人々がいると気づいたと彼女は言いました。彼らの人生で何をしようとしても、それから逃れることはできないのです。人生のどこかの地点で、彼らは呼ばれてしまうのです。そして彼らが帰属する場所へ行く道を探し始めるのです。彼らはどうしてこのようなことをするのでしょうか。わたしにはわかりません。それは簡単なことでしょうか。いえ、簡単ではありません。それは祝福でもあり、呪いでもあるのです。スーフィーは心の渇望について語ります。それは通常、人々に満足を与えるこの世界の物事を、完全なる不満足に変える毒なのです。神秘主義はいわば神の召喚です。実際的な感覚で言うなら、神に呼び出されて、あなたは自分の心の奥深くへと行くことになります。スーフィーはよく、ふたりの師匠はひとつの心に住むことはできないといいます。あなたであろうと、神に愛される者であろうと、それは言えるのです。

 ルーミーは友人の家の扉をノックする男の物語を語っています。

「誰だい?」「わたしです」「この家にはふたりが入るだけのスペースはありませんよ」。

 友人友人は<愛される者>の代わりに使われるスーフィーの用語)は彼が苦しみ、浄化されるために送り込んだのです。一年後に戻ってきた彼はふたたび扉をノックします。そして今回、「誰だい?」に対して「あなたです」という答えが返ってきます。それに対する返事はこうです。「あなたはわたしなのか。じゃあ、わたし自身よ、どうぞ中に入ってください」。声の主は扉を開け、言います。「おかえりなさい」。とてもシンプルです。あなたの自我はどこへも行きません。より大きな力、大きな権威の前でひざまずくのです。

マセナルティー 運命論みたいですね。

ヴォーン=リー それは宿命です。ある人々にとって音楽家になることが天命です。ある人々にとっては医者になることが天命です。ある人々にとってマザー・テレサのように病人を助けるのが天命です。ある人々にとっては神秘主義的な旅をすることが天命です。個人的にはパワフルな何かがあなたを呼ばないかぎりは、あなたがすることを天命とは考えません。ペルシア人のことわざがあります。「自我は笑いややさしさとうまくいかない。それは悲しみやあふれる涙に追われるものだ」。身をゆだねるのは、信じがたいほどに苦痛です。もっともむつかしいことです。内なる何かがあなたに要求しないかぎりは、あなたがそうするとは思えません。万民のためのものではありません。瞑想がすべての人のためのものでないのとおなじです。特殊化したテーマです。すべての人が考古学者や登山家になりたいわけではありません。それは天命であり、どういうふうに天命を生きるかはあなた次第なのです。

マセナルティー だれかが神秘主義者としての天命を受けたと認識したとき、何が起こるのでしょうか。

ヴォーン=リー 昔からのやり方では、もし覚醒したら、あなたは師を探すことになります。現代ならまずインターネットでスピリチュアルについて学ぶでしょう。あるいは教えてくれる人を探すでしょう。わが師の場合ですと、北インドの町へ行かなければなりませんでした。自分ひとりではなかなかうまくいきません。やはりガイドが必要です。ルーミーが言うように、自分ひとりでは駅を見つけることもできないのです。基本的にイリーナ・トゥイーディーと彼女の師、彼女がバイ・サヒブ(兄)として言及するインドのスーフィー大師、ラダ・モーハン・ラルという内的存在は、わたしの師だったのです。

マセナルティー あなたにとって、師を持つことはなぜそんなにも重要だったのでしょうか。

ヴォーン=リー わたし自身、内なる覚醒というものはありました。しかしこうなる文脈のようなものはなかったのです。そう、わたしは瞑想を実践し、異なる内なるリアリティを経験しました。しかしこの日々の生活のなかでどうやってほかのリアリティを生きていけばいいか、わかりませんでした。またこういった内的体験が伝統の一部であるとか、道であるとか、人がこの内なるリアリティの奥深くへ行くことができるとか、そういったことが感覚的にわからなかったのです。そしてわたしは北ロンドンの線路の隣にある小さな部屋で週一回集まるトゥイーディーの小さな瞑想会に呼ばれたのです。部屋にはエネルフィーがみなぎっていました。そして列車が近くを通るたびに、部屋が揺れました。まさに生きている伝統です。わたしはまさにそこにいたのです。わたしは建築学の学生でしたが、それは断念しました。そのかわり文学を学び始めていました。大事なことは、毎週金曜日にこの瞑想のミーティングに参加することでした。というのもそれがとてもリアルだったからです。それがとても理にかなうことであり、また愛を体験しはじめていたからです。この愛は、それまで経験したことのないものでした。

 

 


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