子弟関係の本質 


マクナルティー 現代文化において、貧困にあえぐ国で、多大なパワーを持つ人物の奥底を測るのは容易ではありません。

ヴォーン=リー 夫に先立たれたとき、彼女は実際、とても裕福でした。彼女の師は彼女にすべてを寄贈させました。師ではなく、それを必要とする他者に贈ったのです。彼女のもとには何も残りませんでした。戦争未亡人年金だけがすべてでした。一週間あたり10シリング、つまり50セントほど受け取っていました。のちに金額は少しずつ多くなりました。しかし彼女はティーチングに関していっさいお金を受け取りませんでした。

マクナルティー さて、ヴォーン=リーさんは弟子をお持ちでしょうか。

ヴォーン=リー はい、スーフィーの師としてこれは活動の核心的部分なのです。それは心と心、魂と魂を結ぶ関係なのです。ナクシュバンディー派の伝統には、ラビタ(rabita)と呼ばれる内的な愛の絆があります。それは旅行く弟子をサポートし、育てるのです。この絆なしに彼あるいは彼女は自我(エゴ)と心(マインド)の幻想の世界から聖なる愛の内的リアリティへと、安全に渡ることはできないのです。

マクナルティー 800人の弟子というのはあなたの宗派に属しているのですか。

ヴォーン=リー 彼らの一部は火のそばで暖まっているだけですよ。(笑)何人かは内的な誓約をしています。自分自身の中で何かをする本当の誓約なのです。この道を歩むのにイニシエーションのようなものはありません。この誓約が立てられるとき、扉は開いているのです。どんな関係も、このようなやりかたの上に成り立っています。あなたもこのような開かれた関係に対し誓約を立てることができます。でも気楽なことばかりではありません。ときにこれはハードワークなのです。

マクナルティー 師と弟子の関係について説明していただけるでしょうか。

ヴォーン=リー 師は、弟子がこの内的プロセスに干渉しないで生きていることを、それゆえ彼、あるいは彼女は成長していくことを、また高次の意識に接し、覚醒することを確信しています。基本的に、師はとく弟子を見ています。心の中の切望の炎を消さないように、また内的な旅に焦点をしぼるのを手伝うのです。師はまた、自我(エゴ)や微妙な歪曲、ダイナミックなパワーに騙されないように彼らを助けます。それはもっとも親密でありながら、もっとも非人格的な関係なのです。それは人を混乱させます。親密さと愛を個人的な関係と関連づける西洋人の意識にとってはとくにそうです。しかしこの関係は魂に、われわれの聖なる性質に属するものであり、人格に属するものではないのです。

 わたしは個人が与えられた精神的機会をうまく利用しているのを見たとき、また行程の段階を旅しながらもっとも深い本質を彼らが理解するようになったとき、成就と感謝の深い意味があるのです。おなじように、人生と道が彼らに与えた精神的機会を彼らが失ってしまったときには、悲しみがあります。彼らは古いパターンとダイナミックな自我にとらわれたままなのです。そして彼らは愛と光を受け取ることができませんでした。愛と光はたしかにわたしたちのまわりに存在するものであり、生の肯定的な面なのです。弟子との関係は、この世を去るにあたって、個人が旅の最終章を迎える内的な準備ができるまでつづくのです。スーフィズムはしばしば、「死ぬ前に死について学ぶこと」と説明されます。つまり自我やこの世への執着とも死別することができ、肉体的な死の最後の旅に出発する前に、光や愛の内的世界を体験することなのです。

マクナルティー キリスト教や仏教など他の宗教の子弟関係と比べて、スーフィーの子弟関係の概念はどう違うのでしょうか。

ヴォーン=リー キリスト教においては、師弟関係といえば、それは何よりもキリストと弟子たちの関係のことです。しかし師弟関係の秘教的な面は、カトリックでは重んじられてきませんでした。内的な精神世界よりも、世俗的な力関係に興味が注がれてきたからです。東方正教会もおおよそ似たようなものでした。

チベット仏教の弟子とラマの関係のほうが、クオリティは高いといえるでしょう。スーフィーの伝統においても、チベット仏教徒同様、師と弟子の心から心への関係、愛の結びつきは特別なものとみなされます。弟子は愛を通じてこそ進歩するのです。スーフィーの伝統では、弟子の心の中に十分な愛がなかったなら、師から直接弟子の心の中に愛が注ぎ込まれます。これが「黄金の鎖」と呼ばれる真の精神的伝授法なのです。この伝授がなければ、真の進化というものはないのです。

 また師や精神的共同体がすべきことは、内的世界、外的世界に私的空間を作ることです。弟子たちはそこで内なる真正なものに近づくことができるのです。わたしたちはしばしば手っ取り早い手引書と指令書を探してしまいます。しかし見つかるのはえてしてからっぽの私的空間です。それはもっとも豊かな可能性を秘めた出発口なのです。内なる真の変化が起こるかもしれないのです。わたしの師は自身を「(私的空間の)アパートの管理人」と呼んでいましたよ。

マクナルティー 西欧文明においてそういった師弟関係を作り、推し進めていくにおいて、何が問題で、障害になると思いますか。

ヴォーン=リー 西側社会において、この種の関係が根付くとは考えていません。わたしたちの西欧文化の本質は個人にあり、個人の自由の思想は師に降伏する、あるいは服従するという考えとは相いれないのです。この師に降伏するという秘教的な伝統はひどく誤解されています。この降伏は、師の外見や人格に対しての降伏ではなく、師の内的な本質や師が融合する伝統に対しての降伏なのです。しかし悲しいことに、西側社会では、師の概念や見方は間違った使われ方をしてきました。この師弟関係は腐敗していると見られたのです。多くの人は実際心を痛めてきました。というのも彼らの師はあるべき姿にはほど遠く、純粋ではなかったからです。わたしの仕事の一部は、師と弟子の関係の本質は何かについて説明することだったのです。

 スーフィーの伝統では、師はもちろん降伏する必要はありません。彼ら自身の師に対しても、内なる聖なるものに対しても降伏しないのです。そうでなければ師と弟子は投影、転移、逆転移のドラマに巻き込まれる現実的な危険性があります。精神分析医やセラピストなら当然よく知っているでしょう。精神的な投影がある場合には、それはさらに強力になります。師は師であることの役目に固執すべきではありません。でなければ弟子は自由を奪われてしまいます。自由は進化するための途上の、そして与えられた恩恵の本質的な要素なのです。










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