実際にスーフィーになること
マクナルティー もし誰かがスーフィーの道に入ったなら、それを追求するには、どんな方法が最善でしょうか。
わたしの息子がヨーガ教室に行ったことがありました。息子の父親がスーフィーの教師であると聞いた誰かが息子に近寄って言いました。
「すばらしいじゃないか。興奮するな、スーフィーのメンバーで踊るんだろう?」
息子は答えました。
「ぼくらは踊らないんだ」
「でも美しい音楽や歌はあるんだろ?」
「音楽も歌もないんだ」
「じゃあいったい何をするんだい?」
「何も。静かに座るだけだ」
「なんて退屈な」男はそう言いました。
どんなスーフィズムに引き寄せられるか、それ次第なのです。
インターネットのおかげであなたは異なる教団のことを学ぶことができます。好きに映像を見ることができて、スーフィズムの伝統の意味を学ぶことができます。そしてあなたは師に近づき、生徒として受け入れてもらえるかどうかたずねることができます。さまざまな師がいます。誰かが教団に加わるべきか、イニシエーションを受けるべきかどうか、師がそれぞれ判断することになります。
マクナルティー 誰かがスーフィー教団の生徒になったとき、仕事をやめて、家族のもとを離れるべきなのでしょうか。
ヴォーン=リー いえ、その必要はありません。スーフィズムは修道院の生活ではないのです。スーフィーの伝統は「世界の中にありながら、世界に属さない」ことなのです。スーフィーは家族を重んじる人々です。彼らには子供があり、仕事も持っています。外側だけ見れば、生活は以前と何も変わらないのです。しかし内面を見れば、心が開かれていることがわかります。スーフィズムに慣れてくると、内面の神秘的な旅と、日々の生活とがうまく折り合うようになるのです。
マクナルティー スピリチュアルな道に入る準備ができたかどうか、どうやったらわかるでしょうか。
ヴォーン=リー わたしの経験で言えば、誰もが異なった方法でその道に入るのです。何かを求めるうちに引きこまれる人たちがいます。ルーミーは言いました。
「水を探すな。喉が渇いたままでいなさい」と。
西欧ではしばしば鬱病と勘違いされる心の中の渇望が人を惹きつけます。ほんとうに引っ張られるような感じなのです。引っ張られるように家に帰る道を探すのです。魂が引っ張られるように自分に合った道を探すのです。自分には選択の余地がないと感じる人もいます。これをすべきことだと感じてしまうのです。一方でこれは自分がすべきことなのだろうかと疑問に思いながら何年も過ごす人がいます。けれど5年か6年たってから、その道に入ることになります。
正式なイニシエーションを経てスーフィーの道に入り、異なる名前、すなわちスーフィー・ネームを持つことになるかもしれません。しかしわたしたちの教団にはイニシエーションがなく、新しい名前をつける必要もありません。わたしの師であるイリーナ・トゥイーディーはそのことについて彼女の師にたずねました。すると師は答えました。
「自己を捨てようとしているのに、何者でもないものになろうとしているのに、なぜ何かになろうとするのか」
神とどのような関係にあるか、わたしたちにはそれぞれ独自の方法があります。わたしたちの「道」は自由で、とくに縛りのようなものはありません。わたしたちの師はこう言いました。
「人間のままであればいい。そうすればおのずから神に戻る方法を探し出すことができるだろう」
それはつまり人間の中にある神の閃光、神の本質を信頼するということです。それによってどこへ行くか、どんな旅をするかを決めるのです。