魔女ドリーン・ヴァリアンテ 

フィリップ・ヘスルトン 宮本神酒男訳 

 

1 巨人と森の国から 

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 20世紀のもっとも大きな影響力を持ったウィッチの先祖が、何世代にもわたってドーセットの丘の斜面に刻まれた巨大な裸の男の絵が見えるところで生活してきたのは、おそらく驚くべきことではない。裸の男の何が目立つかといえば、とてつもなく大きな直立したファラス(男性器)だった。180フィート(60m)のサーン巨人は長い間先史時代に彫られたと考えられてきたが、最新の調査ではたかだか17世紀にさかのぼるにすぎないという。それにもかかわらず、サーン・アバスの村を見下ろす巨人は輝かしく、印象的である。

 巨人の名はまさに村の名によって明かされる。サーン(Cerne)はケルトの角の生えた神ケルヌノス(Cernunnos)から派生したと多くの人は考えている。ドリーンはこの名の起源について彼女なりの理論を持っていた。

 

 あなたはつがいの相手を得ていない発情期の雄鹿の叫びを聞いたことがありますか。ニュー・フォレストで秋の発情期の叫びを聞いてください。それは「ヘルーン(HERRNN)、ヘルーン」といった音で、何度も繰り返されます。それはゾクゾクさせるような音で、一度聞いたら忘れることができません。さて、洞窟壁画や像に描かれて以来、ケルヌノスはずば抜けた存在の雄鹿の神です。死すべき者(人間)はどうしてこのようなネーミングをしたのでしょうか。あきらかに森の雄鹿の「ヘルーン、ヘルーン(Herrrrnn herrrrnn)」という鳴き声からきているのです。

 

 サーン・アバスのうちの「アバス」は、987年にこの地に建てられたベネディクト派の修道院に由来する。このキリスト教とペイガン(異端)の組み合わせは、ここの二つの大きな特徴を表している。すなわち村の中心の聖マリア教会とすべてを見下ろすトレンドルの丘の巨人の二つである。

 ロナルド・ハットン教授は、ドーセット出身の偉大なる作家トマス・ハーディが『帰郷』(1878)のなかでドーセットの村について述べている箇所を引用している。

 

 このような風変わりな村々を駆り立てているのは、依然として異教(ペイガン)的なものだった。この地では自然崇拝、自己崇拝、半狂乱のお祭り騒ぎ、チュートン人の神々――その名は忘れられているが――の儀礼の断片的名残によって、中世の教義が残存していた。

 

 ノース・ドーセット・ダウンズの中央を流れるサーン川の谷にサーン・アバスは位置している。ノース・ドーセット・ダウンズは、チョーク(白亜)が露出する土地としては、もっとも南西にあった。南岸の州であるドーセットに属するこの地は、過疎地域であり、ハーディの小説『森に住む人たち』や『ス』のなかに「修道院長のサーネル(Cernel)」として登場する村の背景となる光景と驚くほど変わりがなかった。また『狂おしき群をはなれて』の大きな牛小屋は、この村の小さな小屋をモデルとしていると一部の人は考えている。サーン・アバスは修道院の近くにあって発展した村であり、のちにはその市場はとても繁盛することになった。ビール醸造はとくに有名になるが、それはこの地の水が理想的だったからである。

 結婚する前のドリーンの姓はドミニーであり、近年サウサンプトンに定住したが、もともとサーン・アバスの出身であるという伝承があった。ドミニー家は数百年間、村における卓越した名家だった。ドリーンは、英国最後のローマ・カトリックの君主であり、カトリックの復活をもくろんだため退位することになったジェームス二世の時代の1680年代、「カトリックの拒否」を誓ったドミニー家について言及している。

 1798年の調査によると、ジョン・ドミニーという名の麦芽酒製造人が村のかなりの土地を所有していた。所有物には少なくとも一軒のパブが含まれていた。

 ギボンズは非公式に「血と内臓(激烈な争い)の通り」として知られたアルトンの丘へと通じる村のイースト・ストリートについて言及している。この名前の由来はギボンズが説明する「パブの辛辣な言葉の入れ替え」だという。

 

 ドミニーという名のイースト・ストリートの肉屋はダック・ストリート(アヒル通り)の改名を提唱していた。彼が選んだ新しい名はブリッジ・ストリートだった。異を唱えたタイガー・カーティス氏が言うには、もしドミニー氏が見た目そのもののダック・ストリートという名を軽んじるなら、彼の通りは格下げして「血と内臓(激烈な争い)の小道」とでも呼んでおけばいい、とのことである。

 

 興味深いことに、ドリーンの祖父ハリー・ドミニーも、曾祖父のウィリアム・ドミニーも肉屋だった。つまり肉屋は家業であったように思われる。

 ドミニーという姓についてドリーンはつぎのように書いている。

 

 この名前はハンツ・ドーセット境界地域には珍しくありません。しかしドミニー(Dominey)やドモニー(Domony)などの別形は少ないのです。サーン・アバスは、オリジナルのつづりであるドミニー(Dominy)が見いだされる場所です。

 

 彼女はさらに詳しく述べている。

 

 私はしばしばこの名前の歴史を知ろうと、姓の起源についての本を片っ端から調べてみた。しかし一度として満足を得られる説明に出会ったことはなかった。おそらく単純に「神の」を意味するラテン語のドミニ(Domini)の英語版なのだろう。一部の作家は「神の日に生まれたもの」すなわち日曜日を意味すると主張している。しかしこれではドミニクス(Dominicus)であり、短くしてドミニク(Dominic)、けっしてドミニー(Dominy)ではない。遠い過去においてドミニーの人々が奉じていた神は、丘の上のいにしえの神であると私は信じる。そして名前は古代聖職と関連したブリタニアのローマ人のものであると信じる。

 

 ドリーンは考察を進める。

 

 なぜラテン語の名前なのか? おそらくブリタニアのローマ人の異教とかれらの豊穣の信仰の時代にまでさかのぼるからだろう。

 

 私は語源学の専門家ではないが、ドミニー(Dominie)がスコットランド語で学校教師を意味するか、あるいは関連があると知って驚かずにはいられない。もしそうなら、現代ウィッチクラフトのもっとも輝いた教師であるドリーンがこの名を擁しているのは、まことに適切であるといえるだろう。

 ドリーンの大曾祖父アイザック・ドミニーは1802年にサーン・アバスに生まれた。彼は1826年、シャフツベリー方向に25マイル離れたフォントメル・マグナ出身のメアリー・アン・フランシスと結婚し、そこに定住した。

 ドリーンの曾祖父ジェイムス・ウィリアム・ドミニーは1827年に生まれ、1852年にシャフツベリー出身のメアリー・アン・フランシス(母方の親戚と推測される)と結婚している。その前にサウサンプトン、ミルブルック地区のチャーチストリートに引っ越している。家族はこのあと百年ここで暮らすことになる。

 ドリーンの祖父ハリー・ドミニーは1856年、ここに生まれた。ハリーは出生証明書上のヘンリーの愛称である。海の画家、ハリー・ハドソン・ロドメルがそう呼ばれるのもおなじ理由からだった。父親は彼(ハリー・ハドソン・ロドメル)をヘンリーという名にしておくのは意味のないことだと考えた。なぜならだれもが彼をハリーと呼んでいたからである。

 

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