雪の国の英雄 ケサル王物語
シルビア・グレッチェン (宮本訳)
1 ケサルの誕生 その不思議な能力
昔むかし、山ばかりのチベットにリンという雪の国があり、そこに不思議な力をもったケサルという英雄が生まれました。大いなる困難に立ち向かう勇気と冒険が運命づけられていたケサルは、すべての善なるものを守り、悪を滅ぼすために、天界から地上へと送られたのです。
ケサルが誕生するとき、高い峰に虹があらわれ、それは弧を描いてリンの青々とした畑やほとばしる川をいくつも越え、母ゴクモが住む小さな家に届きました。その瞬間、ゴクモはその腕に赤ん坊のケサルを抱いていました。
輝く、澄み切った大きな目を開いたケサルはこう言いました。
「お母さん、ぼくは獅子王、ケサルです」
何年も昔に、リンの年老いた王は巡礼の旅に出ていました。王が戻ってこないので、豊かで力のある大臣たちは、国を分割していました。賢く統治していた者もいたのですが、そうでない悪しき者たちもいました。トトンはそのひとりです。彼は土地を奪い、人々を抑圧しました。年々トトンは力を得ていき、こうしてリンの人々に災いをもたらすことになってしまったのです。
古代の予言によりますと、ある日不思議な力を持った子供が生まれ、リンの歴史上もっとも偉大な王になるというのです。ケサルは生まれたときから話すことができ、生後一週間で、生後一か月の赤ん坊のように成長しました。その様子をみて恐れをなしたトトンと家臣たちは、ケサルに危害を与えようとしました。
一方、母ゴクモは人目に触れないようケサルを家にとどめようとしました。しかし幼いケサルはいたずらっ子で、魔法も使えるので、母親の心配などどこ吹く風、気がついたらもう外に出ているのです。
「またどこかへ行ったのね!」とゴクモは家から駆けだしながら、叫びました。「こんどはどこに行ったの? 市場で果物をおねだりしているの? それとも通りで馬に乗った人をからかっているの?」
息子を見つけると、母ゴクモはそのいたずらっ子ぶりを叱りつけました。ケサルはそれを無視して、母親にほほえみを返し、なぞなぞの歌をうたいました。
ライオンがほえるとき、キツネは巣でふるえあがります
鷲が空をとぶとき、ツバメは木の枝に隠れます
ケサルが歩くとき、悪は飛び去ります
ケサルは心を読み、気持ちを知ります
ケサルは人間を怖がることはありません
ある日ケサルはほかの小さな子供たちといっしょに、おもちゃの馬に乗って遊んでいました。そこに馬に乗ったおとながあらわれ、いばり散らして言いいました。
「どけ、どけ! トトンさまのお通りだ!」
それを聞くや、子供たちはさっと道のわきに逃げました。しかしケサルだけは道のまんなかに立って、トトンと馬に乗った家臣たちのほうを見ています。
トトンは怒りで顔をねじらせながら、にらみつけました。
「きさまはおれがだれか知っておるのか?」とどなりあげました。
「もちろん知ってますよ、トトンさん」とケサルはこたえました。「ぼくはあなたを知っています。あなたはぼくのことを知っていますか?」
トトンの頭は沸騰しそうになりました。
「こやつをどこかへ投げ捨てろ!」
家臣たちは命令を実行しようとしましたが、馬から降りることすらできません。彼らの馬もみな一歩たりとも動けなくなってしまいました。彼らは鞭を鳴らし、馬の腹を蹴っ飛ばしますが、馬はびくともしません。みなケサルの魔法がかかっていたのです。
偉大なるトトン様と家臣の戦士たちが、ひとりの子供の前に何もできないのを見て、集まっていた群衆の間に、笑い声が漣(さざなみ)のようにひろがりました。
トトンの青白い顔は真っ赤になり、太った体は怒りでふるえはじめました。しかしケサルはわきに寄って、こう言い放ちました。
「トトンさん、これであなたもぼくのことを覚えたでしょう。ぼくはケサルです。将来あなたの主人となり、あなたの王となる者なのです」
その瞬間、トトンの馬がはねあがり、トトンは必死で鞍にしがみつきました。
「こいつがケサルか」とトトンは考えました。
ケサルについて、トトンは奇妙な話を聞いていました。不思議な力を持った子供が力強い王になるという予言のことも思い出しました。
「ケサルをなき者にしなければならぬ!」とトトンは叫びました。
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