8 競馬 ケサル王位に就く
競馬の当日、清らかで輝かしい一日がはじまりました。競技が行われるコースは旗で目印がつけられました。出発点は、リンの谷の端に位置するアウィという名の丘でした。そこから山岳地帯に入っていき、峡谷を通って、ぐるりと回って谷に戻り、執着点に至るのです。
参加する騎手が全員あつまると、あたりは興奮に満ちてはじけそうでした。勝利旗はそよ風にぱたぱたとはためき、数多くのテントが終着点に近い陽だまりの斜面に張られ、風のなかで波立っていました。
有力な騎手たちは黄、白、青色の衣装を身にまとい、出発点に到着しました。彼らの馬は金や銀に飾られ、鞍からは鈴が垂れ下がり、小旗が風になびいていました。立派ないでたちの騎手が通り過ぎるたび、群衆は喝采をあびせました。
興奮した馬たちが飛び跳ねまわったときも、騎手たちは馬上でなんとかこらえ、制御しようとしました。というのも、終着点付近に集まった絹や宝石で着飾った美しい乙女たちの讃嘆する視線を気にしていたからです。
豪華絢爛な騎手のなかでも、最たる者は、トトンでした。王になるのは自分だと信じていたので、それにふさわしく、もっとも高価な練り絹や毛皮でその太った体を包んでいたのです。これ以上施せないほど銀の装飾を施し、これ以上つけられないほど着ている衣や愛馬に飾りをつけました。彼は傲慢な顔をして群衆を見ました。心のなかでは手にするはずの財宝の数をかぞえ、美しいドゥクモを助平ったらしい目で見ました。
ドゥクモは勝者に与えられる黄金の王座の横の小さな丘に立っていました。彼女はケサルがなかなか現れないので、やきもきしていたのです。姿を現したのは、号砲が鳴るほんのわずか前のことでした。
群衆から声が上がりました。
「おい、見ろよ! われらの乞食王、ケサルだぜ! かの有名な木の棒の馬を持って、老いぼれ馬に乗っておられる!」
たしかに、どこからどう見ても、ケサルは乞食でした。彼の羊毛の上着はぼろぼろで、馬も騎手も埃まみれでした。
ほかの騎手たちの馬がいっせいに出発点からなだれをうって走りだし、轟音をたてて谷間をおり、山岳地帯に入っていったときも、キャンシェイはそのあとをとぼとぼとついていくだけでした。しばらくすると、視界に残るのは、貧相な馬に乗ってよろめきながら進む乞食のグルグだけでした。
「やあ、友よ」とケサルは呼びかけました。「ぼくみたいな者が王になるかもしれないとは何という大会だろうね」
「おまえみたいな者が優勝するなんてことはありえないから、心配には及ばんさ。馬の半分が脚をひきずって、残り半分が騎手を投げ飛ばさないかぎりは無理だろうね」とグルグは嘲笑いながら言いました。
ケサルは一呼吸置いてから、射抜くような視線を浴びせながら、通り過ぎる際に言いました。
「グルグよ、見かけはいつもほんとうの姿ではないって、覚えておいたほうがいいよ」
そう言った瞬間、キャンシェは疾駆して、視界から消えていました。残されたグルグは口をぽかんとあけて、驚くばかりでした。
ケサルがつぎに近づいたのは、冷静沈着で、きちんとした身なりの、馬の世話もよくする老人でした。彼はリンの腕が立つ医者でした。ケサルは医者に近づきながら唸り声をあげました。
「いったいどうしたのかね」と医者。
「お医者さん、ぼくは病気なのです。どうか止まって、ぼくのような貧乏人を診てもらえませんか」
「もちろんですとも。あんたはたしかケサルとおっしゃったな。あんたは言われているような魔法使いにも、将来の王にも見えませぬな。さあ、こちらへおいで。どこが悪いか診てあげよう」
ケサルは馬から降りて、脚をひきずりながら医者のわきにやってきました。親切そうな笑みを浮かべながら、医者はケサルの腕を取り、手首に軽く触れて脈を検診し、仰天しました。
「ケサルよ、わしは無数の人の脈を診てきたが、こんな力強い脈ははじめてだぞ! あんたは健康だ、しかも若者だ。何もいうことはないぞ。ただあんたが勝利するのを祈るばかりだ」
ケサルはなにもこたえませんでしたが、このような思いやりのある人を見つけることができてひそかにうれしく思いました。
ケサルはふたたびキャンシェにまたがると、風に乗って彼(馬)を走らせました。ひとりずつ彼は抜き去っていきました。あまりにも速すぎて、ほとんどの人はケサルが抜き去っていったことにさえ気づきませんでした。それに自分たちの馬をめいっぱい走らせることに没頭していたのです。
まもなく、無慈悲に馬を鞭打っているトトンも抜き去りました。目の前を行くのはチャンパでした。
「チャンパさん」とケサルは声をかけました。「あなたは偉大な英雄であす。この競技のリーダーであり、人類の首領です。いっぽう、ぼくは貧しい乞食なので、友人がひとりもいません。この違いは何なのでしょうか」
チャンパは注意深くケサルを見ました。ケサルがぼろぼろで、汚い服を着ていること、そして馬が息切れしていることに気づきました。この乞食がどうやって競技に勝つことができるのか。それとも彼をだますために呪術師が送った幻影なのか。チャンパはさまざまなことを考えました。
チャンパがしげしげとケサルを見つめていると、乞食の姿は揺らぎ始め、輝く金色をまとった高貴なる者の姿をあらわしました。
「ケサルよ、いにしえの予言は真のことを言っていたのか。われらの王となるのはほんとうのことのようだな」
チャンパは腰帯から宝石の箱を取り出し、それをケサルに渡しながら言いました。
「私の目はもはや盲目ではありません。その真の姿を見ることができます。この捧げものを私の忠誠の証しとして受け取ってください。私はトトンを負かして自分が王になることを考えていました。しかしほんとうの王は、目の前におられるかたであることを確信しました」
チャンパがケサルの前で跪いているとき、トトンが馬の足音を轟かせながら、通り抜けていきました。
「ケサル、さ、早く追いかけていってください」とチャンパは言いました。「悪しきトトンはもうすこしで終点に達するでしょう。もし先にトトンが到達するなら、正当な王はトトンということになり、リンから希望が消えてしまいます」
「チャンパさん、リンのことは心配するにおよびません。あなたのような立派な人が国のために尽くすのですから、リンが繁栄するのはまちがいありません」
ケサルはキャンシェに迅速に動くよう命令を下しました。たちどころにキャンシェイは峡谷を越え、リンの大きな谷に飛ぶようにもどってきました。
競馬の競技の終わりについては、さまざまな話があります。みなが認めるのは、トトンがあとわずかで到着するというとき、視界にはだれもいなかったということです。ところが稲妻のような速さでケサルと愛馬はあっという間に終点に迫ったのです。
ある人々は、輝く甲冑をまとった戦士として、燃えるような駿馬に乗る姿を見たといいます。またある者は、薄汚い乞食が埃の雲のなかを飛び、トトンより先に到着したといいます。
ドゥクモがケサルの横まで走るさまは、みなが見ていました。彼女は喜んでケサルを黄金の王座まで導きました。ケサルが王座に坐ると、たちどころに乞食の姿は消えました。朝露の上で、彼の甲冑は日光を浴びて光り輝いていました。彼の微笑みは周囲を照らし、リンのすべての人の心を希望で満たしました。何年もの困難な時期のあと、リンの人々は国王を迎えることができたのです。
すべての騎手が最終地点に達すると、馬をおり、王座に座するケサルに近寄り、忠誠を誓いました。最後にやってきたのはトトンです。嫉妬心と苦々しい思いから、彼は叫びました。
「神々はわしが勝つとおっしゃったのだ!」
「トトンさん、あなたはぼくが子供の頃から危害を加えようとしてきました。でもあなたの悪しき計略によって、最終的にはかえってぼくに利することになったのです。感謝のしるしとしてこの宝石を受け取ってください」と言いながら、ケサルは空の色のトルコ石を渡しました。
トトンの目はまん丸く見開きました。というのも、このトルコ石は彼がワタリガラスに贈ったものだったからです。
「なんたることだ! わしは自分自身の悪巧みに引っかかったということか!」
トトンは歯ぎしりをしながらも、ケサルに忠誠を誓いました。それからこっそりと消えていきました。
有力者たちは、ケサルの横で誇らしげに立つドゥクモとゴクモに加わりました。王座の前にリンの財宝が広げられると、ケサルは高らかに言いました。
「これらの富は、リンの人々を助けるために使われるべきである」
日が沈んだあと、リンの谷間は歌と笑い声で満たされました。13日間、饗宴と歌舞はつづきました。青空には勝利旗の花が咲き、歓声がこだましました。きらびやかな衣装をまとい、豪華な宝石で飾った美しい女たちが伝説的なリンの英雄たちの歌をうたう一方で、男たちは弓や馬術を競い、子供たちは遊びを楽しみました。
祝祭の最後の日、ドゥクモが王座から立ち上がると、群衆は静まりかえりました。はっきりとして、美しい声で、彼女がいかにしてケサルと彼の母親を見つけたか、どうやって信じがたい力をもつ馬を捕まえたか、どうやって鞍や轡、甲冑を見つけたかについて語りました。ドゥクモは最後にケサルの健康と幸福を祈って話を終えました。
「あなたの人生よ、喜びの水が強く、永遠に流れる川のごとく、長くあれかし。悪魔を調伏し、その足を縛り上げ、彼らを真実の信徒に変えよかし。あなたの別れがたい仲間であり、友であれかし」
リンの人々の前で、ケサルはドゥクモを両腕で抱きしめました。ケサルとドゥクモにとって、これは豊かな人生の幸福なはじまりでした。そして数多くの冒険の最初の一章なのでした。彼らはリンの王国を出て、さらに多くの冒険をつづけることになるのです。
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