チベットの奇書 

ダライラマ六世の秘められた生涯 

                                宮本神酒男 

 

恋多き詩人だったダライラマ六世ツァンヤン・ギャツォは、北京へ護送される途中、青海湖付近で没したとされる。しかしこの伝記によれば、六世はこの難局を生き延び、遊行僧として各地を巡りながら、無頭男や雪男、ゾンビ、雪獅子などと遭遇しつつ、最終的にモンゴルに至り、高僧として寿命を全うしたという。これは壮大なホラ話なのか、それとも実際に波乱万丈に満ちた人生だったのか。


チベット最大のミステリー モンゴル人が仕組んだことなのか

 最近ネットで調べごとをしていて驚いたことがある。中国北部のチベット仏教系の宗教施設を見ていくと、没したはずのダライラマ六世にゆかりのある寺院がいくつもあるのだ。『秘められた生涯』の翻訳を試みている私が言うのもおかしな話だが、実在性が疑われている1707年以降の六世の痕跡が存在するのはどういうことなのだろうか。

愛の詩で人気の高いダライラマ六世ツァンヤン・ギャツォは、ダライラマ失格の烙印を押され、北京へ護送される途中、青海湖の南クンガノール湖で病を得て身まかったと多くのチベット人は信じている。病没したというのは表向きにすぎず、じつは護送団から脱出し、遊行僧に変身して各地を遍歴し、最後にはモンゴルに至って尊敬される高僧となり、大僧正として大往生する、という話は彼らにはとうてい認めることができない。

 もし六世が生きのびていたとなると、不都合なことがたくさん生じてしまう。輪廻転生した七世はニセモノであり、その後のダライラマはニセモノの系譜ということになってしまう。

 六世に関するものやエピソードが書かれた寺院は以下の通り。すべて漢名だが、これは清朝廷によって認定されたことを示している。ほとんどの場合、一度清の軍隊によって壊され、朝廷によって再建されている。救われるのは、清朝および皇帝、とくに乾隆帝がチベット仏教を好んでいたことである。言い換えるなら、ダライラマ六世(のなりすまし?)も認可されたということである。そして現在の政府もそれを踏襲しているということだ。

 

「昭化寺」

 康煕五十五年(1716)、ダライラマ六世ツァンヤン・ギャツォがこの地に通りかかったとき、朝格図(現在のアラシャー左旗超格図呼熱蘇木)にある夫妻の邸宅の客となった。六世はこの地が仏法を広めるにおいて理想的な場所とみなし、多くの施主の賛助を得て、法事活動をおこなった。六世は鄂門高勒嘎査に一か月ほど滞在した。昭化寺の近くで、承慶寺も近い、

 翌年、六世(シャブドゥンと呼ばれていた)は僧侶十二名を連れて定遠営(135キロ離れた巴彦浩特)に赴き、アラシャン王アボーと道格什公主(ケケ)と謁見し、朝格図の夫婦の邸宅近くに寺院を建てる約束を取り付けた。このときからアラシャン地区において仏法を広め、説法を行う活動がはじまった。彼はラサの法事のやり方を基準に法事活動や読経の方法などを制定した。自ら一万両の白銀を工面した。十三歳のンガワン・ドルジェ(秘められた生涯の作者)をラサに送って学ばせ、帰ってくるときに大量の仏典や仏像、法具などを持ってこさせた。

 1724年、扎噶(ジャガ)地方に新しい寺院の建設を開始する。3年後に完成し、ジャガ(Brag ‘gag)寺と呼ばれた。のち(1902年)、清朝理藩院から「昭化寺」の扁額をもらう。清朝お墨付きの寺院になったことを意味した。

 乾隆十一年(1746)五月八日、ダライラマ六世は承慶寺で円寂した。翌年六世の肉身は寺のゴルラム湖のほとりにその供養塔が建てられた。

乾隆二十一年(1756)、ンガワン・ドルジェ(作者)の願いから、札薩克(ジャサク 旗あるいはホシュクの頭)の同意を得て、広宗寺(南寺)の建設を開始した。

 

「承慶寺」

 住所を見ると「井灘(らんせいたん)騰格里(トングリ)沙漠の深い所」となっている。その位置は昭化寺の北西20キロの輝図高勒という場所。周囲には砂漠には珍しく二十余りの湖が点在する。

1716年にダライラマ六世ツァンヤン・ギャツォによって建設が始まり、完成したのは1739年だった。そして「阿拉善(アラシャン)読経会」が開かれた。

六世はここ承慶寺で1746年に円寂した。

 

「広宗寺」

 賀蘭山脈の西側麓にそびえる美しい寺院。1756年から1760年までの間に建築された。以上の3つの寺院は阿拉善八大寺院の3つで、二十以上の建築物からなる壮大な寺廟群である広宗寺がもっともよく知られている。この広宗寺という名は乾隆帝から賜ったものである。この寺院のチベット名はペンデ・ギャムツォリンである。

 『秘められた生涯』の作者ラツン・ンガワン・ドルジェは広宗寺の初代ラマタン。ラマタンは彼に対する尊称だが、没後活仏の称号となった。彼の名はほかにンガワン・ルンドゥプ・ダルギェというのがある。また称号はアリルグサン・エルデニ・ノムンハン。このノムンハンは、モンゴルのチベット仏教においてフトゥクトゥのつぎに位置する高僧ラマである。

 ラツン・ンガワン・ドルジェは政争のなかで捕えられ、獄中で死んだという。『ダライラマ、その愛と死』の作者によると、彼の頭はアラシャン左旗のバヤンホト(定遠営)の南門の石積みの下に埋められた。

 父親の名にタイジ(taiji)の称号が入っているので、チンギス汗の血をひく家族であることがわかる。しかも初代活仏であり、リンポチェと呼ばれたとしても不思議ではない。

 

「嘉格隆寺(ジャグルン寺)」

 甘粛省天祝県にある石門寺(嘉格隆寺)は賽科寺(セルコ寺)の子寺である。『秘密の生涯』を読めばわかるとおり、ジャグルン寺は尊者(六世)が生涯でもっとも長くすごした寺院といえるだろう。といっても尊者によって開かれたわけでなく、ダナ活仏ロブサン・テンパ・チュージ・ニマによって、明朝崇禎初年(1628年)に創建された由緒ある寺院である。

 1723年のテンジンの乱に巻き込まれてしまう。このときジャグルン十三寺の僧兵はあわせて1500騎にもなったという。しかし翌年清軍に攻められ、ジャグルン寺は焼け落ちてしまった。

六世が陣頭指揮を執ってジャグルン寺は復興することになった。今の場所が選定され、1723年に施行され、1727年にはある程度の形を成すことができた。竣工は1743年だった。清朝からの援助もあり、朝廷公認であることを示す「格丹勒措哇(ツォンカパの信徒と言う意味)」と書かれた「額」も贈られた。大蔵経(カンジュールとタンジュール)も贈られた。また達布(ダポ)寺という名も賜った。

 同治五年(1866年)にも反乱軍の馬占率いる河州回民(ムスリム)部隊が河西に侵入し、石門寺の一部を破壊した。しかし今回の被害は限定的だった。

 

「広恵寺」

 広恵寺ことセルコ寺は『秘められた生涯』に何度も登場しているが、そのわりに寺院の記録には出てこない。この寺院がモンゴルではなく、アムドにある(青海省大通県)からだろうか。

 ラサのデプン僧院のラマ、ドンドゥプ・ギャツォが清順治七年(1650)に建てた。最初の名はゴマン寺院だった。ラサのデプン僧院のゴマン・タツァン学院(僧侶の大半がアムドかモンゴル出身だった。ジャムヤン・シェパ・ガクワン・ズントゥの法相学などを教えた)の系統である。最初は顕教だけだったが、康煕帝の頃密宗院が作られた。

 アムドを代表するゲルク派の寺院になったが、1723年のテンジンの乱の反乱軍側についたため、年羹堯、岳鐘琪らが率いる清軍の攻撃を受け、活仏を含む七百名以上の僧侶を失うことになってしまった。

 その後は清朝からの援助もあり、かなり回復することができた。その復興にダライラマ六世ことンガワン・チューダク・ペルサンポが大きく関わっていることは間違いないが、記録上は確認できない。彼はジャクルン寺の座主としては有名だった。

 ナムタル(高僧伝)に出てくるタイトゥン寺(タイトゥ寺は同一の寺院だろう)は、大通寺のことであり、広恵寺のことだろう。現在は青海省大通県にある。六世ことンガワン・チューダク・ペルサンポは実際ここの法座についたのだろう。大通県の北部を流れる黄河の支流は大通河と呼ばれる。チベット語でジュラ川であり、中国人が流されたが尊者の念力で救ったのがこの川である。

 ナムタルにはたくさんの寺院が登場するが、モンゴル名、チベット名、漢名があり、しかもしばしば名前が変わったり、統廃合が行われるので、非常にわかりにくくなっている。一つには、多くの寺院が1723年の反乱に巻き込まれ、再スタートを切るときに朝廷から認定してもらい、漢名を得ていることに原因がある。チベット仏教はこの頃から一部、中国に統御されるようになったのである。



⇒ 結論 モンゴル人は信じ、チベット人は批判する 



[補遺:「尊者」の名前] 
 マイケル・アリスは使用されている3つの名前を示している。彼は尊者(自称、あるいは他称ダライラマ六世)を「なりすまし」と断じている。

1 ロブサン・リンチェン・ツァンヤン・ギャツォ(Lobsang Rinchen Tsangyang Gyamtso)
 ダライラマ六世の名。

2 ロブサン・リンチェン・チューダク・ギャツォ(Lobsang Rinchen Ch
ödrak Gyamtso)
 六世の名となりすましの名を組み合わせたもの。

3 ンガワン・チューダク・ペルサンポ(Ngawang Chödrak Gyamtso Pelzangpo)
 なりすましの本名。





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