(3)六世は生き延びて、モンゴルの高僧になった?
六世ツァンヤン・ギャツォが病没したと伝えられるクンガノールでは、実際何が起きたのだろうか。論理的に考えるなら、ダライラマ失格の烙印が押された青年が北京に送られ、どこかに幽閉されたところで、誰にとっても意味がない。そうであるなら、遊牧民が散見されるだけの荒涼とした草原で殺害したほうが、手間が省けるというものだ。しかし殺害されたか、病没したか、他者に確かめようがないのなら、いっさい表舞台に姿を現さないことを条件に自由にさせてやったとしても、不思議ではない。生きているサンギェ・ギャツォは危険だが、ダライラマというブランドのなくなった青年にもはや価値はなかった。
現代アメリカの証人保護プログラムのようなものだと考えればいい。このプログラムによってギャングなどから保護される人には、名前や住所、キャリア、パスポートや運転免許、社会保障番号までまったく新しいものが与えられ、完全な別人になる。
これと同様に、ツァンヤン・ギャツォはまったく別人になると、遊行僧になり、各地の聖地を遍歴し、洞窟や各寺院で瞑想修業に励んだのである。なお護送団を率いたチャナ・ドルジェは二か月後、北京に到着し、清朝宮廷でツァンヤン・ギャツォがクンガノールで病没したことを報告した。当然のことながら、清朝が何千キロも離れた青蔵高原に調査団を派遣することはなかった。
新しいアイデンティティを取得したツァンヤン・ギャツォは、各地を巡り、最終的に、高僧ンガワン・チューダク・ペーサンポとして、モンゴルのアラシャン(アルシャー)にたどりつき、地域の人々から愛され、尊敬されるようになった。女性と酒を愛した放蕩のダライラマは、いまや高潔な、徳の高い高僧になっていた。彼はパリ地区(dPa’ ris 甘粛省天祝県)のいくつかの寺院、とくにジャクルン僧院の座主に収まった。そして1746年に本当に身まかった。
チベットでは、文化の中に仏教が大きなウェートを占めるとともに、ナムタル(伝記)文学が発展してきた。数知れない高僧がチベットの地に生まれてきたが、ごく一部を除くほとんどの高僧のナムタルが書かれてきた。ツァンヤン・ギャツォのナムタルは当然のことながら、「ごく一部」に含まれていた。高僧ンガワン・チューダク・ペーサンポのナムタルも当然書かれるべきだった。
このナムタルを1756年、アラシャンのペンデ・ギャツォリン僧院で書き上げたのはダルギェ・ノムンハンだった。ノムンハンはノモンハン事件で知られるノモンハンと同一だが、これは地名でなく、ホトクトに次ぐ高僧の称号である。
1716年にンガワン・チューダク・ペーサンポがラサのメル僧院、シデ僧院の一団とともにアラシャンにやってきたとき、出迎えたのは作者(ダルギェ・ノムンハン)の父親だった。父親はタイジという称号を持っていたので、チンギスハーンにつながる由緒ある家系の出身であったことはまちがいない。作者は当時まだ二歳の赤ん坊で、あろうことか、高僧の膝の上でお漏らしをしてしまった。しかし高僧は怒るどころか、愛情深く彼の頭を撫で、「これはとてつもなくよい前兆である」と言ったのである。
作者は本の終盤で高僧の高弟十人の名をあげ、その中の三人が彼にナムタルを書くよう勧めたのだと説明している。その誰もが、他の記録からも確かめられる実在する有力者たちである。作者は高僧の側近中の側近であったらしく、ナムタルを書くのは彼をおいてほかにないと見なされていたようだ。