謎めいた美しい女に誘われて洞窟へ
チベットの域内に入ると、巡礼をしながらラサへ向かった。カツェ寺(Ka tshal dgon pa 現・墨竹工卡県 Mal gro gung dkar)に着くと、服装もきれいな妙齢のうつくしい女性に出会った。彼女は私をしげしげと見つめたあと、尋ねた。
「あなたはどこから来たの?」
「カムから来ました。これからラサへ向かうところです」。
彼女もまたラサから戻って来たところだという。「どうして巡礼者はみなラサに行こうとするのかしら」と言って、あだっぽい笑みを浮かべた。なにを言おうとしているのだろうかと、私はいぶかしく思った。
ともかく進んでいこうと考え始めたところ、彼女は「もし急いでいるのでなければ、すこしここに滞在していきませんか。食事もご用意できます」と申し出た。
「あなたの家はどこにあるのですか」。
「私の家はあまり居心地よくないかもしれませんが、後ろの山に隠者のための庵があります。そこなら静かで、だれにも邪魔されることなく、過ごすことができます。奴婢もいますので、いろいろとお世話できるでしょう」。
彼女があまりにも熱心に勧めるので、カツェ山の上の庵に行くことにした。
夕暮れ時、この女性は水の入った瓶や薪、ツァンパなどをもってきた。「この庵は安全です。薪や食べ物が尽きそうになったら、またもってきます」と言うと、女性は去って行った。
二日ほど庵で過ごすと、寺の警護を担当する老僧がやってきた。老僧は私が何者でどこから来たか、問いただした。そのあいだちらちらと水瓶を見やっていたが、突然叫んだ。
「これは私の水瓶だ! おまえが盗んだのだな!」
彼は私の喉元を片方の手でつるしあげながら、もう片方の手でビンタを張った。私は恥ずかしさのあまり、言葉を発することができなかった。彼もまた怒り心頭に発したのか、息もつかず悪態をつき、「おまえのその顔を見せてやりたいよ」と捨てセリフを残して、水瓶をもって去っていった。私はただ彼が丘の下のラトゥ(lha tho 石祠)に向かう様子を見ていたが、突然転倒し、水瓶は大破し、水もこぼれた。ひどくしょげた様子でお堂のなかに入っていった。
私はくやしくてしかたなく、「あそこへ行って(老僧と言い合ったところで)どうなるものでもないし」と、坐ってあれこれ考えていると、例の女がやってきた。私は責めるように言った。
「あなたは他人の水瓶を盗んできたのか。いま、持ち主が来ましたぞ。もとよりあなたはだれなのですか。これ以上ここにいるべきではありません」
「私がだれかということは、そのうちわかることでしょう。あなたに必要なのは休息であり、もう何日かここにいたほうがいいでしょう」と言うと、去って行った。
私は女がどこから来たのか知ろうと思い、あとをつけようとした。しかし顔をあげたときには、すでにその姿はなかった。はじめて私は女がふつうの者でないことに気づき、ぞっとした。
夜になり、扉があき、女が水をもって入ってきた。私は「今夜は水はいりません!」ときっぱり言ったが、聞こえないかのように、水を置いて出て行った。
その夜、夢の中で女が灯明女神(ラモ・ユドンマ Lha mo g-yu sgron ma)であることがわかった。
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