About me

宮本神酒男、自らを語る 改訂版 

 

ブツブツつぶやきながらさまよった頭がおかしい人としての日々 

人間は憶えていたいものを忘れて忘れたいものを憶えているものなんだ。
                --コ―マック・マッカーシー『ザ・ロード』--
  


 それがPTSD(心的外傷後ストレス障害)だったかもしれないと考えはじめたのは、ごく最近のことである。PTSDというのは、イラクやアフガニスタンから帰ってきた米帰還兵がかかるストレス障害だと思いこんでいたので、自分とかかわりのあるものという意識はなかった。

 前兆もなく不意打ちでそれは私に襲いかかってきた。電車のなかで吊革を持ったまま揺れをしのいでいるとき、突然私はテレポーテーションして、路地を歩いていた。中国雲南省大理市の新市街のはずれの路地を、抜け殻のようになった私はただ歩いていた、おそらくブツブツつぶやきながら。大学生ぐらいの年頃の数人のグループが談笑しながら私の前を横切っていった。こちらの存在に彼らはまったく気がついていなかった。彼らとはもう何度も出会っている。たぶん何百回も出会っている。私は霊だ。地縛霊だ。ふと気がつくとまたおなじ路地を歩いている。そしてまた彼らと出会う。彼らは私の存在に気づかない。地縛霊がここにとらわれているのに、気づいてくれない。

 ハッとわれに返る。私は吊革にもたれかかったまま、重力を感じながら床の上で足を踏ん張っていた。目の前にすわっている社長秘書っぽい女性はずっと携帯の画面に見入ったままだ。私のこめかみからは汗がにじみ出ていた。両目からは涙がこぼれそうになっていた。なぜ涙が出ているのかはわからなかった。自分があわれで仕方ないのだろうか。こうしたことは一過性のものであり、頻繁に起きるというほどでもなく、起きてもすぐに平常に復したので、これが精神的な症状という認識はなかった。しかし1993年、ブツブツつぶやきながらひたすら歩き回る頭のおかしな人になってから歳月が流れ、平常の生活を送れるようになりながらも、十年以上の長きにわたって同様のテレポーテーションが繰り返されてきた。

 

 あきらかな精神障害者となりながら、しかも記憶障害にもみまわれながら、どうやって多くのことを覚えていられるのか、といぶかしく思う人もいるだろう。そこまで重度ではなかったということなのかもしれない。思考力も記憶力もほとんどなくなっていたのに、不思議と詳細なことまで記憶していた。たとえばバックパッカーのたまり場だった大理古城のホテルにチェックインしたまま、私は何の目的もなく、何も持たず、大理市の新市街へ向かって幹線道路沿いをぶらぶらと歩きはじめた。古城と新市街のあいだは15キロほどあるのだが、私は意に介さなかった。すでに私はブツブツつぶやいていたはずだ。何かをしゃべらずにはいられなかったのだ。

 途中でおなかがすいたので、庶民的な食堂にはいった。食べ終わり、主人らしき男の人にお代を払おうとしたら、彼は手を振って「おれはちがうよ」といった。食堂の主人ではなかったのである。だれに払ったらいいのかわからず、私は外に出て百メートルほど歩き、湖岸に止まってブツブツつぶやいていた。つぶやきのボリュームは最大限に上がっていた。そのときだれかが話しかけてきた。だれだろうと私は振り返り、いぶかしそうに男を見ながら、つぶやきをやめなかった。男は悲しそうな表情を浮かべて「しかたねえな」と捨て台詞を吐き、きびすを返すと、去っていった。その男が食堂の主人だと気づいたのはしばらく歩いてからのことである。100円程度の食事代とはいえ(ポーク酸菜炒めとかそんな料理だったろう)無銭飲食をしてしまったのは、いまも心が痛い。このように、私ははた目から見れば狂人そのものだったが、妙にこまかいことまで覚えていた。

 短期記憶障害は『博士の愛した数式』(小川洋子著。映画は小泉堯史監督)や『頭の中の消しゴム』(韓国映画。元は日本のテレビドラマ)、『メメント』(クリストファー・ノーラン監督)など、小説や映画、ドラマの材料になっているので、いまでは広く知られた症状である。私は「NHKスペシャル 驚異の小宇宙 人体Ⅱ 脳と心」を再放送で見て、涙が止まらなかった。たしかケンブリッジ大学の名門ボート部に所属する弁護士志望の学生だった青年が、記憶障害に見舞われ、新しいことが記憶できなくなり、家具職人をめざすようになった話などが紹介されていた。この番組を見て、私も前方性健忘症に見舞われていたことがはじめてわかった。1993年以前のことは覚えていたが(前述のように思い出そうとしなかったので、記憶があったかどうかは、じつはさだかではないが)このさまよっている時期、私は記憶を保持することができなくなっていた。

 たとえば上述のように、大理古城を出てつぶやきながら歩いた私は、数時間後、大理の新市街に着いた。その日、私はホテルに泊まっている。(そのあとの数日間はどこにも泊まっていない) チェックインするとき、私は料金を払ったかどうかでレセプションの女性服務員と言い争っている。すでにお金を渡したはずなのに、彼女は「まだよ」と私を突き放したのだ。しぶしぶ料金を払って階上の客室に入り、ズボンのポケットに手を入れると、払おうとしたお金が無造作に押し込まれているのを発見した。私の記憶保持能力がいちじるしく落ちていたのだが、私自身はキツネに包まれたような気分だった。

 大理市の新市街の入り口に橋が架かっているが、その橋のたもとに安普請の小さな商店があった。私はゆっくりと店の中をまわり、スープの素や薬味が入った火鍋セットを見つけた。これさえあれば自宅で本格的な火鍋が楽しめるのだ。香港に戻って火鍋を作ってみよう、と市場に野菜や肉を買いに出るシーンを思い浮かべた。私がそれを持ってレジに行くと、店主らしきおばさんが「これってとても便利なのよ」と言ったのを覚えている。私は自分がほめられたかのように気分がよくなり、代金を払った。しかしそのあと火鍋セットを目にすることはなかった。おそらく私はお金を渡しただけで、商品のことは忘れてしまったのだ。驚くべきことに、記憶保持能力を失っていたときのことを私はある程度記憶している。それはその後回復したからにほかならない。そのあたりが認知症の徘徊老人と似て異なるところだった。




⇒ つづく