About me
宮本神酒男、自らを語る 改訂版
ネパール・ダディン地区のタマン族のボンボ(シャーマン)のひとり。私ではない。私ではないけれど、少年期に錯乱状態に陥って何か月も野山を駆け巡り、その後「まとも」になってシャーマン的意識の変成状態をコントロールできるようになり、ボンボになっている点に共感を覚える。右はこの地方の腸管の襞のような棚田 Photo
by Mikio Miyamoto
わかりますか。私はいま正気ですよ。まじめなんですよ。ねえ、わかりませんか、私はもう気ちがいじゃない、魂のために戦っている正気な人間です。(ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』平井呈一訳)
序
増水した川に流され(タイ北部山岳地帯)、雪山の岩壁から落下し(アフリカ中央のルエンゾリ山)、重度の高山病になってあやうく遭難しそうになり(インド・ラダック)、乗っていたタクシーの自損事故で顔が金網にめりこみ(中国広州)、お色気ぼったくりバーに引っかかり(アテネ)、40℃以上の高熱を発して入院し――このとき日本人残留婦人の見舞いを受けた(中国雲南省)、食中毒か何かで鏡に映った自分の顔が識別できないほど顔が変形し(ラサ)、中国で三度公安に拘束され(デモが起きたラサ、雲南の隠れキリシタンのチベット族の村、ゴビ砂漠のシャーマンがいるウイグル族の村)、白馬チベット族の村で集団暴行を受け(中国四川省平武県)、洪水が発生しインド陸軍のヘリコプターに救助され(インド北部キナウル)、死者を送る山上の祭に参加するため山に登っているとき長時間にわたって両脚が激痛に襲われ(これもキナウル)、氷河湖のほとりを歩いているとき崖崩れに巻き込まれそうになり(パキスタン最北端)、夜間チベットの無人の荒野をさまよい(西チベット)、イ族の村の穀物小屋に泊っているとき何百か所もダニか南京虫に刺され(四川大涼山)……など挙げたらきりがないほど私はトラブルにみまわれてきた。置き引きやスリの被害を含む盗難となるとおそらく2、30回。被害総額は百万円を超える。
しかしそれらをさしおいてもっとも重要な、人生の分岐点(当時は30代前半だった)となったトラブルは、1993年1月末、中国広西チワン族自治区北西部の過疎地区の村の宿にいるときに起きた。二、三日意識がなく、指先以外動かせないほどの重傷を負ったにもかかわらず、自分の身に何が起こったかわからなかった。唯一の記憶は、上空のUFOらしき物体に拉致され、乱雑に地上に戻されたことだけだった。もっと大きな問題は、一か月後に頭が変調をきたしたことだった。雲南省の保山で町をさまよいはじめ、暴漢に襲われ、再度入院。入院中には夢遊病と診断された。睡眠中に起き、病院を抜け出して歩き回ったのだろうか。このあと退院し、大理に移動。ふたたび彷徨しはじめ、さまざまな幻影、幻覚を見た。外から見た場合、私はぶつぶつつぶやきながら歩き回る変な人(あるいはアブナイ人)だった。
隠れたもうひとつの問題は、いつ頭がおかしくなり(もちろん負傷以降だが、早くから予兆が現れていた)、いつまともになったかである。彷徨しているとき警官に保護され、ホテルに連れていかれ、日本人旅行者と同部屋にされた瞬間に、我に返るようにまともになった、と私は解釈してきた。しかしその後、大理のオールドタウンのホテルのドミトリー部屋に滞在しているとき、共同トイレの便器の上で粗相をしてしまい、かつ糞便で汚れたサンダルをそのまま部屋に放置したことなどを見ると、それは専門用語でいう「弄便」であり、あきらかに精神障害者だった。自分のウンコが汚いということがまったく理解できなかった。こんな状態にありながらも、私は自分を「まとも」と考えていたのである。そもそもおそらく一週間くらい大理市の新市街周辺を寝ずにふらついていたのに、自分が異常だということに気づいていなかった。糞便だって垂れ流していたのかもしれないし、そうだとすれば体は悪臭を放っていたはずだ。この彷徨期からラサでの拘束、国外退去までわずか二か月。私はほんとうにそのころにはまともになっていたのだろうか。ラサの宿のドミトリー部屋で友人と話しているとき、部屋の隅に革ジャンを着た見知らぬ男がうずくまっていた。友人が外のトイレに立ったとき、革ジャンの男も消えていた。友人が部屋に戻ってくると、急にバイクで事故死した友だちの話をはじめた……。私はまだ他界との境界線上にいたのかもしれない。
⇒ つぎ (私的トラブル年代記 韓国で伝統芸能を学んだとき、北朝鮮の影が……)