私的年代記(クロニクル) ――トラブルを中心に――  宮本神酒男 

韓国に単身渡り、伝統芸能を学ぶ。そこに忍び寄る北朝鮮の影……(1986年) 

 私がある程度長く滞在した最初の国は韓国だった。仁川(インチョン)市郊外の公園の一角にある当時は真新しかった黄海道(ファンヘド)の伝統芸能文化保存センターの建物に住み込みのような形で滞在し、康翎(カンニョン)タルチュムという仮面劇を学んだのである。具体的には八墨僧(パルモクチュン)の舞いとセリフを習った。八墨僧は赤鬼のような面を着けるのだが、それは一種の追儺面と考えられ、仮面劇(タルチュム)そのものが厄払いの儀礼であることを表している。
 この建物の管理人夫婦の80代の寡黙な夫は仮面製作者であり、いつも紙粘土をこねて仮面を作っていた。仮面は、仮面劇が行われたあと焼却された。タルチュムのタルは日本語のたたる(祟る)と語源的に関わりがあるとされる。古代の仮面がほとんど残っていないのは、こういった事情(怨念のこもった仮面は汚れであるという考え方)があるからだろう。60代の妻は一瞬ではあったが、私にとってのオモニ(母)のような存在だった。あれこれと世話をしてくれたし、その手料理はとてもおいしかった。

さて、私は一時帰国したあと、また韓国に戻って学習生活をつづけるつもりでいた。しかし東京で週刊誌の記者という職を得て、しかも5年間極度に忙しい生活を送ることになり、戻るタイミングを完全に逸してしまった。

 滞在中、大きなトラブルに巻き込まれたわけではないが、あとで考えるとどうしても腑に落ちないことがあった。基本的に私はたったひとりの日本人であり、まわりは全員韓国人だった。しかし途中で関西在住の在日韓国人の青年が訪ねてくるようになった。明るく、フレンドリーで好感の持てる青年だった。仮面劇団の若いリーダーは彼のことを嫌っていた。話し方が女性っぽい、なぜなら韓国語を母親から学んでいるからだ、とリーダーは言った。青年とどうやって知り合ったか、どうしても思い出せない。彼には感じのいい叔父さんがいて、その叔父さん一家はソウルの江南(カンナム)のマンションに住んでいた。カンナムが超有名スポットになるずっと前の話だが、すでにセンスのいい街になっていた。私は日曜日にカンナム・マンションを訪ねることがあった。私は何の疑念も持たなかったが、青年といろいろな話をすると、かならず「金日成はすごい」という話に持っていった。北のシンパなんているわけがないと私は思い込んでいたので、それはとても奇妙だった。総合的に考えるに、彼はあきらかに目的と意図をもって私に近づいていた。私を拉致しようというプランをもっていたわけではないだろうが(80年代半ばには拉致はめったに行われなくなっていた)北に誘い込むというタスクがあったのかもしれない。なにしろ私は北朝鮮の(黄海道は北朝鮮領内である)伝統芸能を学んでいたのだから、北朝鮮に興味を持つまであと一歩ととらえられていた可能性がある。

 そのころ私はつねにだれかにつけられているような気がしてならなかった。仁川から遠く離れた釜山郊外の海雲台(ヘウンデ)を散歩しているときもそう感じた。 当時は拉致問題など話題になることはなく、その存在すら私は知らなかった。従軍慰安婦、ましてや性奴隷という言葉はなかった。仮面劇団のタンソ(短䔥)という縦笛の奏者は元徴用工(この言葉もなかったが、強制労働という言葉はあった)だったが。その寡黙な笛の奏者があるとき突然「私は宇部、長野、秋田に行ったことがある」と日本語でぼそりと言った。宇部はなんといってもわが故郷。ここには宇部炭鉱があり、そこに宇部興産ができたという経緯があった。表情を読むのはむつかしく、彼が日本人を恨んでいるのか、それともそうでもないのか、わからなかった。私は言葉を発することができなかった。
*精神疾患の病歴があるリチャード・シェイヴァーのように「だれかに見張られ、つけまわされている」と感じたのかもしれないが、このような感覚を持ったのはほかにラサでデモが発生したさい、パルコル(八角街)で感じたときだけ。このときは不安が的中し、私服公安に拘束され、国外退去処分を受けた。

 当時私はソウルで奥さんが有名なムーダン(巫堂)だという初老の男性に会ったことがある。仮面劇にもムーダン役は出てくるが、こちらは本物のシャーマンである。ムーダンはとても危険な神職だという。たとえば海岸で入水自殺をした死者の魂を慰撫するために、自身に死者の霊を憑依させ、海に入っていく。関係者が手遅れにならないうちに彼女を救い出さねばならないのだ。首吊り自殺をした死者を慰めるためにも、首吊りを再現する。まわりの人間は息がつまらないうちに助けなければならない。山の中で高麗人参を探すときも、憑依状態で森の中に入っていくので、遭難しないようにまわりは気をつかわねばならない。私はこの男性に、ためしにムーダンを取材することは可能かどうか聞いてみた。すると彼は取材料として250万円を提示してきたのである。250万ウォンではなく、250万円だった。あまりにも高かったので、私は交渉する気にさえならなかった。とはいえ、のちにシャーマニズムに強い興味を抱くようになるので、この機会を逃してしまったのは残念でもあった。



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